説 教 す巻きにして海に沈めろ!

聖 書 マルコによる福音書 9章42〜50節(p.80)
讃 美 歌 27、339、490、238、409、79、29
交読詩編 詩編33編4〜11節(p.38)
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標語 『主イエスの道を歩こう』
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
聖句「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」(19:2)
1.《殿堂入り認定》 「聖者、聖人」と言うと、マザー・テレサを思い浮かべる人が多いでしょう。実際、2016年に彼女はローマ教皇庁から列聖されています。20世紀には、シュヴァイツァー、ガンディー、賀川豊彦が「世界三聖人」と謳われた時代がありました。特に賀川は米国のワシントン大聖堂に彫像が設置されており、殆ど野球やゴルフの「殿堂入り」を思わせます。この「名誉の殿堂」という顕彰の習慣は、カトリック教会の列聖の世俗化したものでしょう。
2.《聖徒の交わり》 キリスト教史上初の聖者は、十字架の強盗ディスマスとされています。教皇庁などの認定ではなく、主御自身が「今日あなたは私と共に楽園にいる」と宣言されたのです。カルヴァンが聖人崇敬を偶像礼拝と否定して以来、その流れを汲むプロテスタント諸教派では、全てのクリスチャンは「聖徒」とされています。事実、聖書によれば「聖なる」は、人間の道徳的特性(功徳)を言うものではありません。真に「聖なる」のは独り神御自身のみです。神の義と聖と贖いによって結ばれた仲間(ともがら)が「聖徒」なのです。
3.《神の民として》 主が「あなたがたは聖なる者」と宣言されたのも「会衆」です。個人としての「聖者」は存在しません。呼び掛けに応えて集まった「聖徒」が存在するだけです。主が「聖なる者」だから、会衆も「聖徒」とされるのです。「聖なる者となれ」「聖なる者とならなければならない」と訳されますが、命令でも強制でもなく、本来は「私が聖なんだから、聖なるはずだよ」とのエールではなかったでしょうか。「聖」とは「清」ではなく「取って置き」の意味です。この後に続く律法も規則ではなく、況してや救いの条件でもなく、聖徒(神の民)として生きるための日々の実践が語られているのです。
朝日研一朗牧師
1.告発歌曲
クラシック音楽ファンならば、エドワード・エルガー、マイケル・ティペット、ベンジャミン・ブリテン等の20世紀英国を代表する作曲家の名前は知っているはずです。
エルガーと言えば、行進曲「威風堂々」(Pomp and Circumstance)、アニメやドラマになった『のだめカンタービレ』に使用された「ヴァイオリン・ソナタ ホ短調」、ピアノの発表会で弾かれることも多い「愛の挨拶」(Salut d’amour)で知られています。また、ブリテンと言えば、「青少年のための管弦楽入門」(The Young Person’s Guide to the Orchestra)、能の「隅田川」を翻案した歌劇「カーリュー・リヴァー」(Curlew River)、圧倒的なスケールの「戦争レクイエム」(War Requiem)が有名です。ティペットは、前者2人には知名度で及びませんが、ナチスのユダヤ人迫害に抗議して作曲されたオラトリオ「われらの時代の子」(A Child of Our Time)があります。
このエルガー、ティペット、ブリテンの後継者がピーター・マックスウェル・デイヴィス(1934〜2016)です。彼の作品に「黒いペンテコステ」(Black Pentecost)という歌曲があるのです。メゾソプラノ+バリトンとオーケストラによる4部構成の作品です。マックスウェル・デイヴィスは音楽家として絶頂期にあった頃、ロンドンを離れて、スコットランドのオークニー諸島へ移住、終生そこに暮らしました。
マックスウェル・デイヴィスは、1979年、オークニー諸島出身の詩人にして作家、ジョージ・マッカイ・ブラウン(1921〜1996)と親交を結び、彼の『グリーンヴォー』(Greenvoe/「緑の入り江」とでも訳したら良いのでしょうか)という小説(1971年)をテクストにして、上記の歌曲を作曲しました。
2.環境汚染
この作品は、1960年代末から70年代の初め、英国の軍産複合体がオークニー諸島に「黒星作戦/Operation Black Star」というプロジェクト名で、巨大な石油コンビナートを建設した結果、深刻な環境汚染が引き起こされたことを告発したものです。私は「黒星作戦」のことは何も知らないのですが、想像するに、恐らく、北海油田の基地として建設されたのではないでしょうか。
マックスウェル・デイヴィスには、ウラン鉱山の採掘による環境汚染を、ミュージカル風に告発した「イエローケーキ」(Yellow Cake Revue)という作品もあります。英国の名女優、エレノア・ブロンが主役を演じたそうです。
「イエローケーキ」と言うと、「くまのプーさん」の「蜂蜜ケーキ」を思わせる美味しそうな名前ですが、実は、ウラン鉱石精製過程の濾過液から得られるウラン含有の高い粉末のことです。今年4月、東京都内の男子高校生が高性能爆薬「四硝酸エリスリトール/ETN」を製造、所持していたことで書類送検されました。「ETN」はプラスチック爆弾として知られる「ペンスリット」と似た爆薬です。しかも、彼はインターネットでウランを購入、精製した「イエローケーキ」をオークションサイトに出品していたのです。昨年8月、19歳の大学生が高性能爆薬「過酸化アセトン/APEX」を作って検挙されたのですが、その関連で、今年に入ってから「イエローケーキ」高校生も書類送検されたのです。驚くべきことに、高校生が放射性物質を製造販売していたのです。
因みに「過酸化アセトン」は「サタンの母/Mother of Satan」とも呼ばれ、各地のテロ事件(2015年パリ、16年ブリュッセル、17年マンチェスター:アリアナ・グランデのコンサート、19年復活日のスリランカ等)に使用されています。
さて、マッカイ・ブラウンの詩「黒い天使たち/Black Angels」の最後に「黒いペンテコステ/Black Pentecost」という語が出て来るのです。「今こそ、凍える天使たちよ/黒いペンテコステの狂騒と燃え殻から/谷間を守り給え」。原詩は「Now,cold angels,/keep the valley from the bedlam and cinders of a Black Pentecost」となっています。
ペンテコステのイメージカラーは「炎の舌」の赤です。もしくは、聖霊による洗礼の白です。米国では、ペンテコステを「Whitsunday/ホイットサンディ」と言います。「ホワイト・サンディ/白い日曜日」のことです。特に浸礼(全身ドブンッと洗礼槽に漬かる)の伝統を守る教会において、ペンテコステに受洗志願者たちが「白い衣」を着て、式に臨んだことから来ているのです。そうしてみると、「黒いペンテコステ」の黒は、重油による海洋汚染を示すことで、神の創造された自然を汚す人間たちの欲望を告発していることが分かります。
3.聖霊冒瀆
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコによる福音書3章28〜29節)。「マタイによる福音書」の並行文では「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と付け加えられています。また「ルカによる福音書」12章10節には「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない」と言われています。
イエスさまの悪口を言う者ですら赦されるが、聖霊に対する冒瀆(悪口、呪い、誹謗中傷、侮辱、汚し)は赦されないと、主は仰るのです。勿論、聖霊を自己目的(商売、組織拡大)に利用しようとする輩などは一溜まりもありません。
どうして聖霊の冒瀆は赦されないのか、私たち人間には分かりません。ただ、何となく、ペンテコステを迎えるに当たり、「黒いペンテコステ」の楽曲を思い出したのです。そして、この世には、赦されない罪というものも確かにあるのでは無いかと思ったのでした。
牧師 朝日研一朗
【2019年6月の月報より】
聖句「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』」(8:24)
1.《チコちゃん》 人気番組「チコちゃんに叱られる」では、質問に答えられない回答者に向かって、5歳児のチコちゃんが「ボーッと生きてんじゃねぇよ!」と喝を入れます。しかし、認知神経学の立場からすると、ぼんやりしている時にこそ、人は自己中心の世界から脱却して、他者に共感したり、社会的視点を獲得したり、物語を紡いだり、発見や発明をするのです。「ボーッとしている」状態は人が人として生きるために絶対に必要な時間なのです。
2.《ぼんやりと》 パウロは「愛の賛歌」の中で「私たちは今は、鏡に朧に映ったものを見ている」と言いました。「朧」は「ぼんやり」、ギリシア語の「アイニグマ/謎」という語です。近現代と違い、古代の鏡は銅と錫の合金、もしくは水鏡です。ぼんやりとしか見えないのです。また、神さまの御心は、この世に生きる私たちにとっては「謎」でしかありません。私たちが「はっきり」知るのは、恐らく天国に行った時でしょう。私たちには、はっきりと見えない、「ぼんやり」で良いのです。信仰も愛も希望も見えるものではないからです。
3.《はっきりと》 イエスさまはベトサイダの盲人を村の外に連れ出して、癒しの御業を行なわれますが、彼の視力は完全に回復しません。「人」が「木」のように見える。「歩いている」から「人」だろうと言うのです。そこで再び主は彼の目に両手を置いて癒されるのです。祈りの反復の大切さを思います。イエスさまですら何度も手当てをして下さるのです。私たちも繰り返し祈りましょう。私たちは人間や世界、物事が明確に見えている訳ではありません。況して、神さまの御心など知る由もありません。でも、それで良いのです。神さまの御心は遥かに高く、その御思いは底知れず深いのですから。
朝日研一朗牧師
聖句「この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。」(8:44)
1.《タッチとタッグ》 キリスト教美術には「ノリ・メ・タンゲレ/私に触れるな」という主題があります。イエスさまがマグダラのマリアに復活のお姿を顕わされた場面を描いています。「タンゲレ」はラテン語の「タンゴー/触れる」という動詞で、英語の「タッチ」です。また「タグ/下げ札、値札」や「タッグ/鬼ごっこ、プロレスのタッグマッチ」の語源でもあります。
2.《主の心に触れる》 イエスさまがマリアの接触を拒否されたのは、復活して霊の体に成っているので、肉の体を持つ者が触って汚してはならないと、神秘主義的な説明をする人もいます(シュタイナー)。しかし、それでは、トマスの前に顕われた主が「触ってみなさい」と仰ったことと矛盾します。主が復活された以上、もはや私たちが身体的接触を求める必要は無いのです。イエスさまと繋がるのは心と心の絆によるのです(ズンデル)。「触ってはいけない」は、単なる禁止や制限、タブーではありません。「触れずに信じる人は幸い」なのです。
3.《ただ信じなさい》 「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」の記事は2つの事件が重なり合って構成されていてドラマチックです。しかし、物語作者の作為やドラマツルギーによるのではありません。同じ福音が述べられているのです。長血の女が癒されたのは、主の御衣ではなく、御心に触れたからです。それを「信仰」と言います。私たちは皆「信仰」によって救われるのです。「信仰」は私たち自身の「真実」であり、私たちが「主の真実なることに思いを致すこと」です。御心に触れる者を、イエスさまは救って下さいます。その時、イエスさまがタッグを組んで、人生という舞台を共に闘って下さるのです。
朝日研一朗牧師