2019年05月20日

ぼんやりと見えます【マルコ8:22〜26】

聖句「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』」(8:24)

1.《チコちゃん》 人気番組「チコちゃんに叱られる」では、質問に答えられない回答者に向かって、5歳児のチコちゃんが「ボーッと生きてんじゃねぇよ!」と喝を入れます。しかし、認知神経学の立場からすると、ぼんやりしている時にこそ、人は自己中心の世界から脱却して、他者に共感したり、社会的視点を獲得したり、物語を紡いだり、発見や発明をするのです。「ボーッとしている」状態は人が人として生きるために絶対に必要な時間なのです。

2.《ぼんやりと》 パウロは「愛の賛歌」の中で「私たちは今は、鏡に朧に映ったものを見ている」と言いました。「朧」は「ぼんやり」、ギリシア語の「アイニグマ/謎」という語です。近現代と違い、古代の鏡は銅と錫の合金、もしくは水鏡です。ぼんやりとしか見えないのです。また、神さまの御心は、この世に生きる私たちにとっては「謎」でしかありません。私たちが「はっきり」知るのは、恐らく天国に行った時でしょう。私たちには、はっきりと見えない、「ぼんやり」で良いのです。信仰も愛も希望も見えるものではないからです。

3.《はっきりと》 イエスさまはベトサイダの盲人を村の外に連れ出して、癒しの御業を行なわれますが、彼の視力は完全に回復しません。「人」が「木」のように見える。「歩いている」から「人」だろうと言うのです。そこで再び主は彼の目に両手を置いて癒されるのです。祈りの反復の大切さを思います。イエスさまですら何度も手当てをして下さるのです。私たちも繰り返し祈りましょう。私たちは人間や世界、物事が明確に見えている訳ではありません。況して、神さまの御心など知る由もありません。でも、それで良いのです。神さまの御心は遥かに高く、その御思いは底知れず深いのですから。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から