説 教 平和ではなく剣を=@

聖 書 マタイによる福音書 10章34〜39節((p.19)
讃 美 歌 27、501、490、562、414、82、89
交読詩編 詩編121編1〜8節(p.145)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神が…」(5:16,17,18)
1.《祈れないとき》 故石井錦一牧師(松戸教会)が「信徒の友」誌巻頭に連載していた祈りを編集した『祈れない日のために』という本があります。その中に「神さま、祈れないのです/祈りたくないのです」という叫びのような祈りがあります。現役牧師が信徒向け雑誌に書いた衝撃も然ることながら、これもまた祈りであるという事実の提示こそは大きな驚きでした。しかし、改めて「詩編」を開けば、同じような嘆き節、怨み節が幾らでも見出されるのです。
2.《通じない祈り》 自らの不信仰に悩むのは信仰者だけです。信仰のない人は信じられない気持ちと葛藤することはありません。不信仰もまた信仰の一種なのです。「不通の/通じない」苦しみなのです。神さまと思いが繋がらない、通じない不安と苛立ちなのです。「神通力」という語があり、特殊な「霊能力」を意味しますが、大抵の人は「祈りの通じない」現実の中にあって苦しんでいます。信仰者か否かを問わず、願いが叶わなかった時、自らの不信仰を嘆くか、反対に神や仏を逆恨みするかです。しかし、不信仰なままで良いから、神に祈ること、訴えることを続けて欲しいのです。神さまとのラインを断ってはなりません。
3.《御心と人の心》 上記の聖句は、嬉しくもないのに「喜べ」、祈れないのに「祈れ」、辛いのに「感謝しろ」と言われているようです。作り笑いをしたり敬虔ぶった仕草、ウソっぽい祈りをしろと言うのでしょうか。でも、それは自身や周りの人に向けたもので、神に向かっていません。「キリスト・イエスにおいて」は「十字架」です。悲しみの中にあって祈れない私たちのために、イエスさまの「十字架」があるのです。神が先ず私たちを祝福し、恵みを約束され、「何でも言ってみなさい」と御心を開いてくださっているのです。それこそが「神が望んでおられること(テレーマ)」、即ち「神の御心」なのです。
朝日研一朗牧師
今日はみんなでシャボン玉をしました。
なぜか割れない不思議なシャボン玉で、床に落ちても丸いまま。どうしてかなあ?
聖句「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10:43,44)
1.《サンチャゴ》 7月25日は「使徒聖ヤコブの日」という祝日で、ヤコブ崇拝の総本山サンチャゴ・デ・コンポステーラでは盛大な祭りが行なわれています。ヤコブがアグリッパ王の迫害時に斬首された記事は聖書にあります。しかし、その後の伝説は信憑性がありません。遺体はスペインに運ばれて埋葬、星の導きで羊飼いに再発見され、聖地と成り、レコンキスタの旗印にされたのです。島原の乱の一揆軍の吶喊でも「サンチャゴ!」と聖ヤコブの名が叫ばれたのです。
2.《立身と出世》 福音書に描かれるヤコブは聖人でも英雄でも無く、生臭い存在です。兄弟ヨハネと共に「イエスさまがメシア王国を建設した暁には、右大臣左大臣にしてくれ」と願い出るのです。他の10人の弟子たちも「抜け駆け」に立腹します。しかし、それは主が3度目の「受難予告」を為さった直後のことでした。彼らは自分の立身出世を願っていたのです。本来、儒教の「立身」は親孝行の教え、仏教の「出世」は俗世を捨てることでした。このように語が本来とは正反対の意味で使われるのは、教えに対する冒瀆です。権力に抵抗した使徒ヤコブがスペインでムスリムを駆逐する象徴に使われたのと同様です。
3.《仕えるため》 ヤコブも主の十字架と復活を体験するまでは、現世での立身出世のみを願う凡俗だったのです。「自分が何を願っているのか、分かっていない」のです。現代社会では、自らの夢や望みの実現を目指して生きることが尊いこととされ、そんな生き方を望まない人間には「負け組」のレッテルが貼られます。全てを自己目的達成のための手段とします。しかし、それが幸せをもたらすのでしょうか。イエスさまは立身出世の野望に取り憑かれた愚かな弟子たちを憐れみ、彼らを招いて、誰からも(自分の欲望にも)支配されず、コントロールされない生き方を説いて居られるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた。その人は身を起こして立った。」(6:8)
1.《レイアウト》 所謂「ブレグジット/EU離脱問題」で揺れる英国議会の映像を見ていて、議場が対面型であることを意識しました。二大政党制を前提に、徹底的に議論するのに最適のデザインです。米国の連邦議会や日本の国会は半円型です。また、中国の全人代や北朝鮮の最高人民会議は教室型(劇場型)です。これは指導者の唱える方針を受け取るためのデザインです。
2.《ファリサイ》 「安息日/シャバット」は「仕事を休む/シャーバト」という動詞に由来します。労働を離れて心身を養い、神に思いを向け、命の意味を見詰める時です。労働に取り憑かれると、却って命の価値が見失われるのです。しかし、ファリサイ派はその律法厳守(正しいこと)を、他の人たちにまで押し付けようとしました。「ファリサイ」とは「分離された者」の意味で、延いては「聖なる者、正しい者」のことです。真宗大谷派の僧侶、瓜生崇は「カルトの問題は正しさへの依存」と定義しています。人間が真実を求めて行くならば、むしろ迷いながら、時には間違いを犯しながら歩くのが本当なのです。
3.《信仰の中心》 当時のシナゴーグは、奥に聖書の巻物を納めた「聖櫃」、その前に「講壇」、主要メンバーの上席「モーセの座」と成っていました。ファリサイ派や律法学者は「上席」を巡って、激しい鍔迫り合いを繰り広げていました。そんな中、イエスさまは隅の末席に追い遣られていた「手の萎えた人」を「真ん中に」、講壇の前へ招かれたのです。いつの世も、人間が身分や階級、経済階差、功績の有無などによって勝手な序列を決め、それが社会に分断をもたらしています。しかし、イエスさまは、弱くされた人を「真ん中」に取り戻すことで、信仰(義認)の内実を訴えられたのです。
朝日研一朗牧師
聖句「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」(55:8)
1.《新島とヘッセ》 2013年の大河ドラマ『八重の桜』の中で、スイス滞在中の新島襄が呼吸困難に陥り、遺言を書く場面がありました。その後、持ち直して膏薬を貼り、旅行を続けたようですが、その滞在中にK・O・J・ヘッセ牧師を訪ねています。そこに同席したのが、当時7歳のヘルマン・ヘッセでした。ヘッセは第一次大戦の時、反戦平和を標榜して迫害されますが、同胞の捕虜のために「慰問文庫」を設立して送る活動に従事しているのです。
2.《アウグスツス》 その「慰問文庫」の1冊が童話「アウグスツス」です。結婚後すぐに未亡人となった女性が出産します。それでも母親は子どもの幸せを願って「誰もがお前を愛さずにはいられないように」と願を掛けます。少年は美しく成長し、皆から愛されますが、次第に我儘で高慢に成り、やがて放蕩と歓楽に身を持ち崩します。絶望した青年は「今度は、ぼくが人々を愛せるように」と願を掛けるのです。すると、これまで彼を愛した人々からは憎まれ、投獄され、出獄した後も蔑まれます。しかし彼は、自らの溢れる愛と喜びを出会った人々に注いで行く、そんな巡礼のような生涯を全うするのです。
3.《愛することを》 人生は思い通りになりません。「アウグスツス」は「小児的全能感」を思わせます。私たちは皆、試行錯誤を繰り返しながら成長し、自と他の区別、善悪の区別が出来るようになります。自分の思い通りにしようとすることは、人間の罪ではないでしょうか。例えば、自然をコントロールしよとするのは傲慢です。「お言葉通りに」「御心のままに」と、神の御前にひれ伏していくのが人間の在り方ではないでしょうか。神さまのデザインと流儀にお委ねしては如何でしょうか。そこに幸福と救いがあるのです。
朝日研一朗牧師