2019年07月30日

8月第1主日礼拝(平和聖日)

       8月 4日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 平和ではなく剣を=@音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 10章34〜39節((p.19)
讃 美 歌  27、501、490、562、414、82、89
交読詩編  詩編121編1〜8節(p.145)

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posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2019年07月29日

祈れない日の祈り【Tテサロニケ5:16〜25】

聖句「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神が…」(5:16,17,18)

1.《祈れないとき》 故石井錦一牧師(松戸教会)が「信徒の友」誌巻頭に連載していた祈りを編集した『祈れない日のために』という本があります。その中に「神さま、祈れないのです/祈りたくないのです」という叫びのような祈りがあります。現役牧師が信徒向け雑誌に書いた衝撃も然ることながら、これもまた祈りであるという事実の提示こそは大きな驚きでした。しかし、改めて「詩編」を開けば、同じような嘆き節、怨み節が幾らでも見出されるのです。

2.《通じない祈り》 自らの不信仰に悩むのは信仰者だけです。信仰のない人は信じられない気持ちと葛藤することはありません。不信仰もまた信仰の一種なのです。「不通の/通じない」苦しみなのです。神さまと思いが繋がらない、通じない不安と苛立ちなのです。「神通力」という語があり、特殊な「霊能力」を意味しますが、大抵の人は「祈りの通じない」現実の中にあって苦しんでいます。信仰者か否かを問わず、願いが叶わなかった時、自らの不信仰を嘆くか、反対に神や仏を逆恨みするかです。しかし、不信仰なままで良いから、神に祈ること、訴えることを続けて欲しいのです。神さまとのラインを断ってはなりません。

3.《御心と人の心》 上記の聖句は、嬉しくもないのに「喜べ」、祈れないのに「祈れ」、辛いのに「感謝しろ」と言われているようです。作り笑いをしたり敬虔ぶった仕草、ウソっぽい祈りをしろと言うのでしょうか。でも、それは自身や周りの人に向けたもので、神に向かっていません。「キリスト・イエスにおいて」は「十字架」です。悲しみの中にあって祈れない私たちのために、イエスさまの「十字架」があるのです。神が先ず私たちを祝福し、恵みを約束され、「何でも言ってみなさい」と御心を開いてくださっているのです。それこそが「神が望んでおられること(テレーマ)」、即ち「神の御心」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2019年07月28日

シャボン玉

今日はみんなでシャボン玉をしました。

20190728みんなでシャボン玉

なぜか割れない不思議なシャボン玉で、床に落ちても丸いまま。どうしてかなあ?

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灰をおろそかにするなかれ

1.安否不明者

私は先月、アニメの「聖地巡礼」について書いたばかりでした。「聖地巡礼」ブームのキッカケに成った作品として『涼宮ハルヒの憂鬱』と『らき☆すた』を挙げていたのですが、まさか、それらの作品を製作した「京都アニメーション」第1スタジオが放火されて、こんなに悲惨な大事件が起きる等とは…夢にも思いませんでした。

事件発生から数日を経て、今日現在(7月23日)においても、未だに死者の身元特定が出来ないという中で、「安否不明者」として、武本康弘監督の名前が挙げられるように成りました。「京アニ」の製作作品で言えば、前述の2作の他に、『けいおん!』(2009年)、『けいおん!!』(2010年)、『日常』(2011年)、『境界の彼方』(2013年)、『響け!ユーフォニアム』(2015年)等の作品で、監督、演出、原画、絵コンテなどを手掛けた作家で、アニメ業界では有名な人物でした。

この「安否不明」という状況は、2016年の「相模原障害者施設殺傷事件」を思い出さずにはいられません。あの事件の時には、全く別の事情で被害者の名前が伏せられたままだったのですが、事件の重大さ悲惨さが明らかに成って行く過程で、容易に連想されました。そう言えば、あの事件も7月の事件でした。

2008年の「秋葉原通り魔事件」の事も思い出されました。その1年前の2007年には、秋葉原で『涼宮ハルヒの憂鬱』のエンディング・タイトルに流れる「ハレ晴れユカイ」のダンスを、全国から「ハルヒ」ファンが集まって踊っていた事が思い出されます。私は東京に来たばかりだったので、その不思議な光景をよく覚えています。

2.虐殺と攻撃

そう言えば、英語版の「ウィキペディア」によると「秋葉原通り魔事件」は「Akihabara Massacre/秋葉原虐殺」、「相模原障害者施設殺傷事件」は「Sagamihara Massacre/相模原虐殺」と呼ばれています。今回の「京都アニメーション放火事件」は「Kyoto Animation Arson Attack/京都アニメーション放火襲撃」の呼称に成っていますが、私は今回もまた、「マサカー/虐殺」だったと思います。しかし、オウム真理教による「東京地下鉄サリン事件」が「Tokyo Subway Sarin Attack/東京地下鉄サリン攻撃」であった事を考え合わせると、あれは「アタック/襲撃、攻撃」であったという事も間違いありません。

何を下らない事を言っているのかと思われるかも知れませんが、とにかく、私は「事件/アクシデント」という表記が許せないのです。「事件/アクシデント」では、突発的、偶発的に起こった出来事であるかのような意味にされてしまうのです。しかしながら、ここに挙げた4つの犯罪は、いずれも計画的な犯行です。断じて「犬も歩けば棒に当たる」的な事柄ではありません。ですから、どうしても「事件」等という日本語的な言い回し、犯罪者の責任を曖昧にするような表現が許せないのです。それらは、確かに「虐殺」であり「攻撃」だったと思うのです。

そして特に「攻撃」と言う場合に含まれるのは、その「攻撃」は、ただ単に「東京の地下鉄」や「京都アニメーション」に対する「攻撃」に終わるものでは無く、私たちの社会全体に対する、私たちの魂に対する「攻撃」なのだという実感です。それは「虐殺、大量殺人」と言う場合にも、意識されて然るべき感覚です。「事件」等と呼んでいたのでは、どこまで行っても「他人事」の域を出ないのでは無いでしょうか。

被害者は「虐殺者」による「攻撃」によって殺されたのです。辛うじて命を奪われなかった人たちも(そして、遺族、被害者家族も)、この「攻撃」によって、心身に大きな障碍や傷を負わされて、これから長い年月、苦しみに耐えなければならないのです。そのような現実を、どこかで曖昧にして、すぐさま「追悼」して行く感覚に違和感を抱かざるを得ません。日本語は、そんなにも想像力の欠落する言語に成ってしまったのでしょうか。

3.心に王冠を

「京アニ」の事を考えながら悶々としていたら、ハードディスク・レコーダーの録画の中に「京アニ」製作の『映画 聲(こえ)の形』(2016年)が録ってあるのを思い出しました。我が家の二男が録画してくれていたのです。しっかり「誤削除防止ガード」までしてありました。『聲の形』は、大今良時原作のコミックス(「週刊少年マガジン」に連載されていた)のアニメ映画化です。思わず観てしまいました。

先天性の聴覚障碍を持つ西宮硝子(早見沙織)が小学校6年生のクラスに転校して来た事から始まる、クラスの関係性の変化、イジメ、不登校、対人恐怖症などが描かれます。それから6年後、硝子イジメ先鋒だった石田将也(入野自由)は、高校3年生に成った春、硝子に再会して、そこから新たな物語が始まるのです。

岐阜県大垣市や養老町を舞台にしているのですが、街の風景(鯉の泳ぐ疏水、養老鉄道、養老天命反転地など)が細部まで丁寧に描き込まれています(それこそが「京アニ」です)。そのような風景のディティールの積み重ねが、登場人物たちの言葉や仕草や佇まいにリアリティ(アニメなのに!)を与え、その心の動き(コミュニケーションの成立、不成立の度毎の)に何度も泣かされてしまうのです。

こんな映画を作っていたアニメ製作会社のスタッフが虐殺され、スタジオが焼かれてしまったのです。窓の奥に見える煤の暗黒に(私自身も含めて)多くの人たちが、言いようの無い虚無感を抱いています。それ故、せめて私はパラケルススの言葉を献げましょう。「灰をおろそかにするなかれ。それは、汝の心の王冠、永遠なる物質の質料なのだから/Cinerem ne vilipendas, nam ipse est diadema cordis tui, et permanentium cinis」(「哲学者の薔薇園」)。

牧師 朝日研一朗

【2019年8月の月報より】

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2019年07月23日

7月第4主日礼拝

       7月28日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 祈れない日の祈り=@音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  テサロニケの信徒への手紙T 5章16〜25節(p.379)
讃 美 歌  27、86、490、396、491、88
交読詩編  詩編22編25〜32節(p.28)

・讃美歌練習(8月の月歌:501番)   礼拝後    礼拝堂

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2019年07月22日

仕えるために生きる【マルコ10:35〜45】

聖句「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10:43,44)

1.《サンチャゴ》 7月25日は「使徒聖ヤコブの日」という祝日で、ヤコブ崇拝の総本山サンチャゴ・デ・コンポステーラでは盛大な祭りが行なわれています。ヤコブがアグリッパ王の迫害時に斬首された記事は聖書にあります。しかし、その後の伝説は信憑性がありません。遺体はスペインに運ばれて埋葬、星の導きで羊飼いに再発見され、聖地と成り、レコンキスタの旗印にされたのです。島原の乱の一揆軍の吶喊でも「サンチャゴ!」と聖ヤコブの名が叫ばれたのです。

2.《立身と出世》 福音書に描かれるヤコブは聖人でも英雄でも無く、生臭い存在です。兄弟ヨハネと共に「イエスさまがメシア王国を建設した暁には、右大臣左大臣にしてくれ」と願い出るのです。他の10人の弟子たちも「抜け駆け」に立腹します。しかし、それは主が3度目の「受難予告」を為さった直後のことでした。彼らは自分の立身出世を願っていたのです。本来、儒教の「立身」は親孝行の教え、仏教の「出世」は俗世を捨てることでした。このように語が本来とは正反対の意味で使われるのは、教えに対する冒瀆です。権力に抵抗した使徒ヤコブがスペインでムスリムを駆逐する象徴に使われたのと同様です。

3.《仕えるため》 ヤコブも主の十字架と復活を体験するまでは、現世での立身出世のみを願う凡俗だったのです。「自分が何を願っているのか、分かっていない」のです。現代社会では、自らの夢や望みの実現を目指して生きることが尊いこととされ、そんな生き方を望まない人間には「負け組」のレッテルが貼られます。全てを自己目的達成のための手段とします。しかし、それが幸せをもたらすのでしょうか。イエスさまは立身出世の野望に取り憑かれた愚かな弟子たちを憐れみ、彼らを招いて、誰からも(自分の欲望にも)支配されず、コントロールされない生き方を説いて居られるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:27 | 毎週の講壇から

2019年07月21日

プランターに種まき

今日は、プランターに種をまきました。

オクラ、メロン、バジルです。

20190721プランターに種をまき

芽が出ますようにexclamation

posted by 行人坂教会 at 17:51 | こどもの教会「あんず」

2019年07月16日

7月第3主日礼拝

       7月21日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 仕えるために生きる=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 10章35〜45節(p.82)
讃 美 歌  27、86、490、415、487、88
交読詩編  詩編22編25〜32節(p.28)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2019年07月15日

誰を真ん中にするか【ルカ6:6〜11】

聖句「イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた。その人は身を起こして立った。」(6:8)

1.《レイアウト》 所謂「ブレグジット/EU離脱問題」で揺れる英国議会の映像を見ていて、議場が対面型であることを意識しました。二大政党制を前提に、徹底的に議論するのに最適のデザインです。米国の連邦議会や日本の国会は半円型です。また、中国の全人代や北朝鮮の最高人民会議は教室型(劇場型)です。これは指導者の唱える方針を受け取るためのデザインです。

2.《ファリサイ》 「安息日/シャバット」は「仕事を休む/シャーバト」という動詞に由来します。労働を離れて心身を養い、神に思いを向け、命の意味を見詰める時です。労働に取り憑かれると、却って命の価値が見失われるのです。しかし、ファリサイ派はその律法厳守(正しいこと)を、他の人たちにまで押し付けようとしました。「ファリサイ」とは「分離された者」の意味で、延いては「聖なる者、正しい者」のことです。真宗大谷派の僧侶、瓜生崇は「カルトの問題は正しさへの依存」と定義しています。人間が真実を求めて行くならば、むしろ迷いながら、時には間違いを犯しながら歩くのが本当なのです。

3.《信仰の中心》 当時のシナゴーグは、奥に聖書の巻物を納めた「聖櫃」、その前に「講壇」、主要メンバーの上席「モーセの座」と成っていました。ファリサイ派や律法学者は「上席」を巡って、激しい鍔迫り合いを繰り広げていました。そんな中、イエスさまは隅の末席に追い遣られていた「手の萎えた人」を「真ん中に」、講壇の前へ招かれたのです。いつの世も、人間が身分や階級、経済階差、功績の有無などによって勝手な序列を決め、それが社会に分断をもたらしています。しかし、イエスさまは、弱くされた人を「真ん中」に取り戻すことで、信仰(義認)の内実を訴えられたのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から

2019年07月09日

7月第2主日礼拝

       7月14日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 誰を真ん中にするか=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 6章6〜11節((p.112)
讃 美 歌  27、86、490、550、484、88
交読詩編  詩編22編25〜32節(p.28)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内