2019年08月05日

平和ではなく剣を【マタイ10:34〜39】

聖句「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(10:34)

1.《聖書の権威》 米国のキリスト教原理主義者の多くは「逐語霊感説」の立場から「聖書に書いてある事は一言一句に至るまで間違っていない」と主張します。確かに、プロテスタントは福音主義の立場から聖書を信仰の規範とします。しかし、終末思想や千年王国思想に関心が集中した上に、細かい字句に拘泥するのは外道です。結局、聖書の権威を絶対化すること(聖書の偶像化)で、指導者の権威を絶対化しようとしているだけのように思われます。

2.《聖書の誤記》 聖書の写本、翻訳、印刷出版の歴史は誤訳と誤記の歴史でもあるのです。聖書は常に「間違いだらけ」だったのです。有名なのは、17世紀英国で出版された「姦淫聖書」です。「十戒」の「汝、姦淫するなかれ」が「汝、姦淫すべし」と誤植されていたのです。他にも「虫聖書」「猿股聖書」「場所取り聖書」「酢の聖書」「愚か者聖書」「不義の聖書」「ユダの聖書」等、近年に至るまで枚挙に暇がありません。聖書が印刷されて大勢の人の目に触れるようになったからこそ、間違いが発見され易くなったのです。手書き写本の時代には、誰も気付かないまま、伝承され続けたはずです。

3.《解放する剣》 8世紀アイルランド典礼用聖書「ケルズの書」では「剣」が「喜び」に誤訳されています。意図的な改変だったのかも知れません。この聖句が受け入れ難いのは現代の私たちとて同様です。「平和の主」イエスが「平和ではなく、剣を投げ込む」と仰るのです。普通の宗教なら「親孝行」「家庭円満」を教えるはずです。しかし、ルツが「嫁の鑑」とされ、「申命記」で親不孝の息子を石打ちで殺せと書かれているのを見た時に、家制度の抑圧に悩む人たちのことが思われたのです。不幸な状況の中、父母、息子娘を愛することが出来ない人にも価値はあると、主は招かれたのでは無かったでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から