聖句「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(6:34)
1.《明日は別の日》 映画『風と共に去りぬ』の幕切れのヒロインの台詞「明日は別の日」は様々に訳されて来ました。「明日は明日の風が吹く」「明日は明日の陽が照る」「明日に望みを託して」「私には明日がある」「望みはある、また明日が来るのだから」等々…。イエスさまの上記の御言葉と、古代ローマの詩人ホラティウスの「今日の禍は今日にて足れり」が世俗化したものと思います。
2.《思い悩みの種》 歌謡曲にも「明日がある」「明日はきっといい日になる」と歌われ、明日は希望の象徴です。しかし、御言葉を改めて読み直すと、今日には今日の思い悩みがあったように、明日には明日の思い悩みがあるのです。それ故に先取りする必要はないのです。「苦労/カキア」は「悪、不幸、災い」です。生きていれば、どこまでも付き纏うのです。現代人は、人生に付きものの苦労から目を背けるために、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」が幸せであるかのように擦り替えたのでは無いでしょうか。しかし、それがまた、新たな「思い悩みの種」に成っているのですから厄介です。
3.《満ちて来る光》 イエスさまが希望を託すように仰るのは「明日」ではなく、「神の国と神の義」です。「明日の苦労」を背負うのは取り越し苦労、「今日の苦労」を持ち越すのは「持ち越し苦労」です。苦労に対しても「足れり」と断念するべきです。太陰暦の古代ユダヤでは、1日の始まりは日没でした。キリスト教の暦もこれを受け継いでいます。闇で始まり、やがて光に満ちて来るのです。今日の「苦労」は「黄昏」と共に闇に包まれて忘れ去られます。そして、信仰者である私たちは本当の明日、「復活の朝」を目指して生きて行くのです。遥か先にある真の光に満ちた世界が、私たちを待っているのです。
朝日研一朗牧師