説 教 信仰によって今も語る=@

聖 書 ヘブライ人への手紙 11章1〜12節(p.414)
讃 美 歌 27、379、490、227、458、385、26
交読詩編 詩編17編1〜5節(p.20)
・青空カフェ 礼拝後 玄関バルコニー
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように…。」(6:9,10)
1.《10月31日》 プロテスタント教会では「宗教改革記念日」ですが、世間は「ハロウィン」一色です。ハロウィンが「子どもの祭り」として定着している米国では、多くの牧師が「ハロウィンを宣教の機会」として積極的に捉えていますが、大人の乱痴気騒ぎと化した日本では躊躇を感じます。だからと言って、これを「異教の祭り」と敵視するのは行き過ぎかとも思います。
2.《完全な世界》 原理主義的な教会では、自らの信仰生活の潔癖さ、完全さを追及する余りに、信徒が自分の子どもたちにハロウィンを禁じたりします。クリント・イーストウッド監督の映画『パーフェクト・ワールド』は、少年時代に父親から虐待を受けた脱獄囚が、「エホバの証人」の母親と暮らす少年を人質にして逃亡する内に、お互いに自らの姿を重ね合うことで生まれる交流を描いています。脱獄囚は、家出したまま戻って来なかった父親がくれたアラスカの絵はがきを肌身離さず持っていました。映画の幕切れに、それを少年に託すのでした。
3.《愛の完成を》 聖書で「完全な世界」と言えば、天地創造です。また「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とのイエスさまの教えが重要です。信徒は「キリスト者の完全」を目指して、自ら節制禁欲に励むばかりか、家族や周囲の人間にも押し付けて行く傾向にあります。本来、目指していたはずの神の愛とは程遠い、裁きと支配に陥ってしまうのです。イエスさまは「主の祈り」の最初に「御名、御国、御心」を置かれました。神さまの愛の心と願いが世界中に及びますようにとの祈りです。それが「完全な世界」です。人間が完成することではありません。また、自分たち(クリスチャン)だけが救われることを願っているセコイ祈りではありません。
朝日研一朗牧師
聖句「神の霊によって語る人は…、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(12:3)
1.《遅効性》 小学校2年生の時、日曜学校でペトロの信仰告白(あなたこそ、生ける神の子キリストです)を繰り返し学びました。高校2年生で受洗する際、「あなたにとってイエスとはどういう御方か?」と問われました。戦争体験を聴く会では、戦場でキリスト者として自身を保つことの厳しさを学びました。信仰者の決然たる言葉は、何十年も経ってから効き目の出て来るものです。
2.《しるし》 信仰の告白は聖霊の働きです。ブルーダーの『嵐の中の教会』は、1930年代、ナチス政権の成立によって「キリストのしるし」ならざるものに膝を屈めることを強いる残酷な支配が、ドイツの田舎町の教会にも押し寄せて来る様子を活写しています。ルターが「キリストのしるし」を見失ったローマ教会を批判したこと、教団が「戦責告白」を発表したことも思い出されます。揺るがせに、曖昧にしてはならないものが確かにあるのです。そんな「キリストのしるし」とは何か。消去法で私たちが選び取って行く他はありません。
3.《多様性》 教会は「キリストのしるし」を核として一致していながら、聖霊の働きの多様性、一人一人の違いが強調されているのです。恐らく、パウロは各人の顔を思い浮かべながら書いたはずです。信仰に踏み出す契機が多様であったのと同じように、人生や個性の違いをエンジョイすべきなのです。私たちの最期の時は、自分では保証できません。強い人も自力で支えられなくなります。そんな時、思わず助けを求める叫びを上げる、それも祈りなのです。戦後、東ドイツに留まり、不遇な生涯を送った神学者、シュニーヴィントは「自分が苦しくて祈ることが出来ない時には、私のために祈り給う方にしがみつく」と告白しています。たとえ「死の陰の谷」でも、主に出会うことが出来るのです。
佐治 恵
聖句「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(24:12,13)
1.《嘆きの壁》 エルサレムには「西の壁」と呼ばれる場所があります。2千年間、ユダヤ教徒はその壁の前で嘆きの祈りを奉げています。紀元66年、第一次ユダヤ戦争の際、ローマ軍によって破壊された神殿の残骸なのです。ユダヤ人は将来、ダビデ王家を継ぐメシアが来臨し、神殿が再建されることを願って祈り続けているのです。それが彼らの終末信仰なのです。
2.《神殿崩壊》 弟子たちはエルサレム神殿の威容を見て感動しています。「おのぼりさん」です。神殿の大きさ(メガス)に見とれて(テアオマイ)いるのです。しかし、イエスさまは神殿崩壊を預言されます。すると直ちに、弟子たちは神殿崩壊と世界の終わりが、いつ起こるのか主に尋ねます。弟子たちは、スペクタクルな展開を期待して、好奇心を満たそうとしているだけです。即物的で興味本位で、自己中心的です。エルサレムの破滅を予感して、涙を流された主の御心とは大違いです。イエスさまは終末の時を「知らない」と突っ撥ねられます。終末の時に執心するのは、福音信仰からすると、邪道、外道なのです。
3.《セカオワ》 「SEKAI NO OWARI」のボーカリストは、ADHD(注意欠陥・多動性障害)を患っていて、何度も「世の終わり」と呻くような挫折と絶望を経験し、それでも音楽を支えに「世界の終わりから始めてみよう」と決意したと言います。偽預言者、戦争と内乱、飢饉や地震などの自然災害、迫害、信仰の躓き、裏切りに憎しみ合い、倫理観の喪失、無法状態、愛の消滅と「世も末」と思われますが、「そういうことは起こるに決まっている」のです。愛を「冷やす」のは「プシュコー」、私たち自身の「プシュケー/息、命、霊魂」なのです。ダメな自分に耐え忍ぶ者に、主は救いを約束されたのです。
朝日研一朗牧師
聖句「『…まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。…』」(14:22,23)
1.《聖書と血糖》 家庭医から血糖値の高さを指摘されます。聖餐式に使用する葡萄液が甘いものですから、イエスさまの血糖値も気になります。古代から糖尿病はあったそうですから、大酒飲みのイエスさまも、ヘロデ親子や大祭司も糖尿病の可能性があります。古代ローマ人は1日4食でしたから、ピラトも糖尿病だったかも知れません。誰も彼も糖尿病にしたく成るのです。
2.《午餐と晩餐》 古代ユダヤ人は朝夕の1日2食でした。「列王記」の預言者エリヤや「出エジプト記」の鶉とマナからも分かります。ところが、14章12節には「昼食や夕食の会」とあります。英訳聖書は「ディナー」と「サパー」に訳し分けられることが多いです。「ディナー」は時間帯ではなく、その日のメインの食事「正餐」を意味します。「サパー」は「スープを啜(すす)る」から派生した語で、床に入る前の簡単な食事でしたが、照明の発達と共に豪華に成ったのです。ギリシア語の「デイプノン/晩餐」には「御馳走を食べる」の含みがあります。イエスさまの譬え話「大宴会」は「デイプノン・メガ」なのです。
3.《神の招待状》 ある主人が盛大な宴会を催し、予め招待して置いた客たちに、改めて召使いを遣わして案内しますが、招待客は「畑を買った、牛を買った、嫁を買った」と理由を付けてドタキャンするのです。自らの所有と経済活動を優先しているのです。この無礼なドタキャンに対して「神の怒り」は、恐らく生涯を通して、畑も牛も嫁も得ることがない、生活困窮者を招くという方向に転換します。「町の大通り/広場」「路地/巷」から更には「通り/田舎の畦道」「小道/生垣、垣根」まで召使いたちは、客を捜して巡ります。私たちは、そのような神の必死の招きを決して疎(おろそ)かにしてはなりません。
朝日研一朗牧師