11月30日にクリスマスコンサートが行われました。





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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。」(17:27)
1.《つつぼ口》 小さい頃、私は母親から「つつぼ口」と言われていました。炊き立てのご飯の中に砂利が入っていたり、コロッケの中に長い髪の毛が入っていたり、味噌汁の中に虫が飛び込んで来たりするのです。その都度、母親から、私が「つつぼ口」のせいだと言われるのです。「つつぼ」とは「土穂」の訛ったもの、「落ち穂」の事だと、最近に成って漸く分かった次第です。
2.《魚の中に》 「太平記」には、壇ノ浦の源平合戦の最中、悪七兵衛が海中に落とした日本刀をイルカが飲み込み、百何十年後に、大森彦七の手に渡る話があります。「南総里見八犬伝」では、犬飼現八の誕生祝いに父親が釣って来た鯛から「信」の珠が出て来ます。ヘロドトスの「歴史」によると、ポリュクラテスは、過ぎたる幸運を諫めるファラオの助言に従って指輪を海に捨てるのですが、釣り上げられた魚から指輪が出て来て、主人の手に還って来ます。グレゴリウスは知らずに犯した罪を悔いて、自ら鉄の足枷を付けて、その鍵を海中に捨てますが、漁師の釣った魚から鍵が出て、罪の赦しを宣言されます。
3.《私らしく》 神殿税の集金人から「あなたの先生は神殿税を納めないのか?」と責められたペトロは、売り言葉に買い言葉で「納める!」と言ってしまいました。本来なら、神に奉げる献金を神の子が支払う謂われは無いのです。しかし、そんなペトロを叱るでもなく、ペトロの体面を保ちつつ、イエスさまは尻拭いをされます。漁師のペトロにとって釣りは得意技です。釣った魚から神殿税1シェケル(4デナリオンに相当)が出て来るのです。私たちの人生でも、挫折や困難に出遭うことがあります。そんな時こそ、自分にがっかりしないで、むしろ自分らしさに賭けてみましょう。神の与えられるチャンスです。
朝日研一朗牧師
礼拝の前、子どもたちがクリスマスツリーを飾って、来週からのアドベントの準備をしました。
収穫感謝日合同礼拝では、子どもたちも司式や聖書朗読をしました。
礼拝後、収穫感謝日パーティーがありました。持ち寄った食材で作った豚汁、果物、海の幸をいただきました。
聖句「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。」(9:18)
1.《光落ち》 アニメやマンガの世界では、正義のヒーロー転じて悪人と化する展開を「闇堕ち」、反対に悪役が何かの出来事や出会いを契機に正義の心を持ってしまうことを「光落ち」と言います。「闇堕ち」の代表は、ミルトン『失楽園』のルシファーです。「光落ち」の代表は、牛若丸に敗れて家来になる武蔵坊弁慶、ソーニャの祈りに支えられて悔い改めるラスコーリニコフ(『罪と罰』)、息子の叫びに目覚めるダース・ベーダー(『スター・ウォーズ』)等です。
2.《殺戮者》 パウロこそは聖書最大の「光落ち」キャラです。キリスト教徒の迫害者として、ステファノの殉教にも関わり、その後も信徒たちの家に押し入り「男女を問わず」捕らえて「牢に送って」いました。新約聖書の半分以上は、パウロ自身とその弟子筋の人の執筆ですが、元々は残忍極まりない「悪党キャラ」だったのです。「弟子たちに対する脅迫と殺人を荒々しく呼吸する」(1節)と書いてあります。「殺人/フォノス」は、むしろ「殺戮」と訳すべき語です。アナニアも神のお告げに対して「あの男は悪人です」と抗っています。
3.《うろこ》 世に「パウロの回心」と呼ばれる出来事ですが、悪い心を改める「改心」ではなく、過去の価値観を捨てて、正反対の立場に回るのが「回心」です。聖書にある語で言えば「メタノイア/悔い改め」に該当します。「メタノイア」は「認識が変わる事」です。そんな劇的な瞬間を「使徒言行録」は「目から鱗」と表現しました。「鱗/レピス、レピデス」は「人の目を曇らせるもの」の比喩です。「鱗が落ちる」とは、これまでとは正反対の立場に回って、世界や人を見ることです。同じ風景も見る角度や季節、時間帯によって変わるのです。神さまは、私たちにも小さな「回心」の機会をお与え下さっています。
朝日研一朗牧師
聖句「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…。」(28:19)
1.《生きるために》 若年で乳がんと診断される方、幼い子を抱えていたり、キャリア半ばで生を終えられる方もあります。医療現場でも、何と声を掛けて良いのか分からないような時があります。しかし、私たち、クリスチャンには伝えられる言葉が与えられています。この世での時間が限られている方に対しても、自信を持って「永遠の命」のあることを伝えることが出来るのです。
2.《ゆるされた命》 医学が進んでも、人間が幾ら頑張っても「永遠の命」は得られません。人は罪を抱えた存在です。普段は自分に罪がある等とは思いませんが、他者に対する妬みや憤りが噴き出す瞬間があります。ある婦人患者は、検査の際、待合室での老婦人の緩慢な動きに苛々した気持ちを抱きましたが、臨終が近付いた時、「そんな自分が許せない。残された時間は僅か。罪の告白をしたい」と洗礼を受けられました。人は大小様々な罪を抱えていて、それを赦されたいと願うのです。これを「スピリチュアル・ペイン」と言います。人間は、そのような罪悪感を抱えたまま世を去るべきではありません。
3.《見出された命》 イエスさまはベトザダの病人を癒しただけではなく、その御言葉によって生きる意味をお与えになりました。人は病気や障碍によって、生きる意味を見失うこともあるのですが、反対に、病気や障碍を通して、その人にしか分からない痛みもあり、新たな生の意味に目覚めることもあるのです。生きる喜びを見出された命です。主イエスを知ることで、私たちは「永遠の命」を与えられます。ある60歳代の女性は病床洗礼を受け、笑顔で帰天されました。救われた喜びと感謝から、一人でも多くの人に、イエス・キリストによる「永遠の命」を知って頂きたいと思います。
山内英子(聖路加国際病院ブレストセンター長)