2019年12月10日

12月第3主日礼拝(アドベント第3主日)

      12月15日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 信じた人は何と幸いでしょう=@音楽 朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 1章26〜45節(p.100)
讃 美 歌  27、228、490、248、190、28
交読詩編  詩編47編1〜10節(p.55)


・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2019年12月09日

信じなかった人にも喜びを【ルカ1:5〜25】

聖句「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(1:20)

1.《競走馬の名前》 私は賭け事はやりませんから、競馬場に足を運ぶことはありませんが、競走馬のネーミングセンスの面白さには、以前から深い関心を持っています。20年程前に中央競馬会に「ザカリヤ」というサラブレッドがいたのです。「クルアーン」の「ザカリーヤー」からの命名ですが、勿論、新約聖書の洗礼者ヨハネの父親、祭司ザカリアのことに他なりません。

2.《人生の同伴者》 クルアーンの記述には、妻のエリサベトの名前がありません。そもそもマルヤム(母マリア)以外に女性の名前はないのです。「ルカ」には「二人とも」なる語が2度も繰り返されていて、この老夫婦が人生を一緒に歩んで来た道程を想像させます。妻が不妊であれば離縁される時代、何等かの罪を犯した故の不妊と誹謗中傷される時代です。非の打ち所の無い信仰が強調される点からも、二人の闘いが読み取れます。また、エリサベトは大祭司「アロン家の娘」ですから、ザカリアは婿養子、立場の弱い恐妻家だったのかも知れません。

3.《二百日の沈黙》 クルアーンでは、ザカリアの口が利けなくなるのは3日間ですが、「ルカ」では「十月十日」です。余りにも長過ぎるので、御言葉を信じなかった天罰や懲らしめのように思われます。しかし神の御力を示す奇跡の「徴」なのです。これまで何度も流産の経験があったのでは無いでしょうか、妊娠安定期の5ヶ月目に入ったエリサベトが、声高らかに宣言するのを見ると、「信じる」も「信じない」もなく、御言葉を「感じる」、そんな感性も求められているように思います。ザカリアの二百日も、主の御言葉を全身全霊で「感じる」ための期間だったのでは無いでしょうか。たとえ不自由を負わされても、神の恵みを体全体で感じる「喜び」が、ザカリアにも臨んだのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:56 | 毎週の講壇から

2019年12月03日

12月第2主日礼拝(アドベント第2主日)

      12月 8日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 信じなかった人にも喜びを=@音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 1章5〜25節(p.99)
讃 美 歌  27、228、490、240、241、28
交読詩編  詩編47編1〜10節(p.55)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2019年12月02日

神を見た者はいない 【ヨハネ1:14〜18】

聖句「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)

1.《サンタの存在》 今から122年前、米国はNYの「ザ・サン」なる新聞社に8歳の女の子から「サンタクロースはいるのですか?」という質問が届き、その返事が社説として掲載されました。論説委員F.チャーチは「この世には、愛や思い遣り等、目には見えないけれども、確かに存在するものがある。それと同じく、サンタクロースも確かに存在する」と訴えたのです。

2.《真心と想像力》 この記事は大きな反響を呼び、再掲載を求める投書が相次いで寄せられました。そして百年以上経った今も、クリスマスの季節とも成れば、この文書は世界中で語り継がれているのです。「サンタクロース」を「キリスト」、あるいは「真心」と読み替えれば、信仰の有る無しに関わり無く、誰でも得心が行くはずです。私たちが聖書を読む時に必要なのが、この想像力です。愛と思い遣り、真心と信頼です。勿論、私たちに「真心」(嘘偽りの無い誠の心)があるとは言い難いのですが、「一寸の虫にも五分の魂」です。「魂」をもって触れることが大切なのです。「魂」とは愛と寛大さと信仰に他なりません。

3.《神の愛を見よ》 教会生活を続けていると、人に躓くことがあります。そんな時、必ず牧師から言われるのは「人を見ないで、神を見よ」という言葉です。しかし「神を見た者はいない」とあります。しかるに、14節には「私たちは神を見た」と言います。これは「霊的に見抜く」という意味の語です。神なる「父の懐にいる独り子」が世に遣わされました。「懐」とは神さまの「命、魂」そのものです。神さまは、私たちに御自身の「命、魂」を与えられたのです。そこに神の「恵みと真理」「慈しみと真」があるのです。いずれも目に見えるものではありません。しかし、あなたを愛して止まぬ神に心を向けましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から