説 教 ”新しい歌のたぐい?”

聖 書 ヨハネの黙示録 14章1〜5節(p.468)
讃 美 歌 27、147、490、380、274、76、29
交読詩篇 詩編101編1〜8節(p.113)
・青空カフェ 礼拝後 玄関バルコニー
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標語 『主イエスの道を歩こう』
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
聖句「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」(2:8)
1.《降誕節》 教会暦に厳密であれば、先週の日曜日は未だ「降誕節」に入って居らず「待降節第4主日」でした。本日こそが「降誕節第1主日」、本当のクリスマス礼拝です。しかし、東方正教会では1月6日の「公現日」こそがクリスマスです。但し、これらは飽く迄も教会暦上のクリスマスです。キリスト者が降誕、復活、聖霊降臨(再臨)の救いの御業を軸にして過ごすための行事暦です。
2.《野宿者》 12月25日にせよ1月6日にせよ、聖地において、真冬に野宿しながら羊の放牧をしていることはあり得ないと言われます。乾季と雨季の二季しかなく、冬は雨季の真っ只中だと言うのです。3世紀末に、アレクサンドリアのクレメンスが降誕を「5月20日」としたのは尤もです。冬のクリスマスはローマ帝国の冬至に設定した後付けとされています。しかし、この「羊飼い」がユダの荒れ野にいるベドウィンならば、冬でも放牧をしているかも知れません。「雨蔭」のために、冬にも降雨量が殆ど無かったからです。
3.《宿無し》 ベドウィンは誇り高い民族ですが、「野宿をしている/アグラウロス」という語の中には「野原(アグロス)が住まい(アウレー)なんだって」という、定住者の側から見下すような、一種の蔑みが感じられます。「野宿者」と言えば、現代の私たちは「ホームレス」を連想します。様々な事情で安心して宿る場所を失った人たちです。それは「泊まる場所がなく」宿無し状態で生まれたイエスさまと、どこかで繋がっていると思うのです。降誕の知らせは寛ぎの「客間」にではなく、(これが雇い人の羊飼いならば)「夜通し」働く非正規雇用労働者の所に先ず届けられたのです。年の瀬に寒風に晒され、心細い思い、憂いや悲しみに心塞がれた人の隣人となるために、主は来られたのです。
朝日研一朗牧師
1.スローガン
去る12月23日、用事があって妻と二人で西新宿に出向きました。その帰り、JR新宿駅西口駅前交差点に、歩道と言わず、横断歩道と言わず、デパート入口前と言わず、至る所に大勢の若者たちが立っているのを目にしました。皆、黄色の背景に黒文字の大きな看板を支えて無言で立っています。
「罪から清められた人は幸い。」「神が遣わしたキリストが救世主」「キリストは真の神」「キリストは再び来て、世をさばく。」「キリストは罪人を救う。」「罪のむくいは死」「死後さばきにあう。」「神を畏れ、そのことばに従いなさい。」「キリストは永遠の命を与える。」「神の裁きの日は近い。」…。やはり「罪」「裁き」「死」という脅迫的な文字が目立ちます。
それら全ての言葉の下には、黒地に白抜きで「聖書」と書いてあります。それを一瞥しただけで「こんなに押し付けがましい事を言う、聖書なんか絶対に読むものか!」と、自然に思わされます。寒空の中(恐らくは)何時間も、重い看板を持って立ち尽くす若者たちの姿を見た上で、黒地の「聖書」の文字を目にすると、それが「ブラック本」だと、暗黙の内に感じさせるのでした。
未だに、キリスト教会が世間から疑心暗鬼の目で見られるのは、このようなキリスト教系カルトの街宣活動の影響も大きいのです。「ISIL」がテロを起こせば「イスラーム」そのものが危険視されます。元々、社会の中で少数派であると、バッシングの直撃を受けることに成るのです。しかし、このような偏見や無理解に対しては、根気強く誠意をもって、自分たちのあるべき姿を表わして行くより他にありません。
それと同時に、私たち自身も、上記のようなスローガンを振り回すだけの存在に堕してはいないかと、常に検証して行く必要があります。私たちの聖書の読み方は、カルトの人たちと、どこがどんな風に違うのか、確認して行くことも大切です。そうすることで初めて、聖書の御言葉の中から、現代に活きるメッセージが自ずと浮かび上がって来ると思います。
2.街頭の募金
さて、件(くだん)の立て看板要員とは別に、歩道の片隅には、通行人にパンフを配ったり、アンケートを取ったりする別の要員も待機していました。こちらは、恐らく、立て看板要員よりも地位が高いのでしょう。彼らの脇の、歩道の鉄柵に立てられた幟(のぼり)旗の1つには、あたかも守護神ででもあるかのように、文鮮明(ムン・ソンミョン)と韓鶴子(ハン・ハクジャ)の写真がプリントされています(因みに、2012年に、彼らの「再臨のメシア」文鮮明は肺炎のために死亡しています)。
鈍感な私は、それを見て漸く「統一協会であったか!」と思いました。相変わらず、団体名は隠したままに「聖書」という文字だけを振り回して街宣しているのです。街宣車も2台出ていて、スピーカーで立て看板と同じような、空疎なスローガンを連呼していました。聞けば、統一協会の信者「食口」(シック:家族や兄弟姉妹)による新宿駅西口でのキャンペーンは、今や師走の名物に成っているそうです。
その付近では、昔ながらの「救世軍」の「社会鍋」もやっていました。こちらこそは、明治以来の師走の名物でしょう。「だいたんに銀一片を社会鍋」(飯田蛇笏)と俳句の季語にも詠まれています。ご高齢の2名の隊員(兵士)が、募金を入れる人に笑顔で対応されていましたが、以前のように鳴り物(ラッパや太鼓)も無く、ハンドマイクのアピールも歌も無く、とても静かな印象を受けました。
そう言えば、新宿駅西口では「東日本大震災で被災した、ワンちゃん猫ちゃんを救済する街頭募金」もやっていました。こちらは「NPO法人 青年協議会」です。この街頭募金は目黒駅「アトレ2」の前でも、いつも見るので珍しくはありません。こちらは人目を引くように、愛らしく穏やかな大型犬を何頭か連れて来て、募金集めのアピールにしています。
聞く所によると、募金を呼び掛けている青年たちは、時給1,000円のアルバイトなのだそうです。「青年協議会」という団体の活動目的は、私には今少し腑に落ちません。しかし、それでも「時給1,000円」は決して高くありません。それなりの志(動物愛護の精神?)が無いと出来ません。と言って、統一協会のように、マインドコントロールした青年たちを「奴隷」として使っているのとは違うということです。
3.詐欺の集団
「街頭募金」と言えば、一時期、目黒駅西口で「難病のこどもに愛の手を」という緑色の幟(のぼり)旗を立てて募金活動をしている老人たち(なぜか男女の老人)がいました。「長野県立こども病院」の院内学級を支援するためと銘打っていました。「神奈川県立こども医療センター」を謳っている時もありました。
長野県立こども病院にしろ、神奈川県立こども医療センターにしろ、そのHPを見ると、募金は集めていますが、「街頭募金は一切行なっていません」とのことです。「東京都内で、こども病院の名前を騙った街頭募金が横行しているとの通報を受けている」とも書かれていました。明らかに集団詐欺グループだったのです。それにしても、あの老人たちは一体、何者だったのでしょうか。
先の統一協会の場合のように、カルトの青年たちが上からの命令を受けて動員されているのは、如何にもありそうなことですが、老人たちが動員されているというのは、これまでのイメージとは随分違っています。ああ、でも、統一協会のメンバーにも高齢者が増えているのかも知れません。そう言えば、渋谷センター街で「アンケート活動」と称して、不法勧誘をしている、統一協会の勧誘員は中高年の女性たち(統一協会婦人部)でした。
牧師 朝日研一朗
【2020年1月の月報より】
聖句「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。/身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」(1:47,48)
1.《神の母として》 カトリック教会では「聖母マリア」と称えますが、プロテスタント教会では「母マリア」と素っ気無く呼んでいます。素っ気無さには理由があります。古代から現代に至るまで、「神の母」「生神女」「パナギア」「天の元后」等と称号を付与され、「永久処女説」「無原罪の御宿り」「聖母の被昇天」と、あたかも女神ででもあるかのように祭り上げられてしまったのです。
2.《ありのままの》 宗教改革者たちは、聖書の証する信仰に忠実であろうとして、マリアを「栄光化」することを拒んだのです。高貴な人が存在する限り、卑賤な人も存在します。「マリア崇敬」のように特定の女性を崇拝することは、女性差別や女性軽侮と表裏一体です。マリアは特別な存在ではなかったと考える方が彼女自身の信仰告白「マグニフィカート」にも適っています。「身分の低い」は身分制や階級を言っているのではなく、「見すぼらしい境遇」「取るに足りない状態」の意味です。年端も行かない小娘であること、信仰や人生経験の不足を言っているのかも知れません。しかし「神の力は弱さの中に働く」のです。
3.《神の偉大な業》 「マリアの賛歌」の中心メッセージは「偉大なこと」です。ペンテコステの記事(使徒言行録2章11節)にもあります。キリストの誕生と教会の誕生に共通する語です。聖霊降臨の祝祭的な様子に比べると、如何にも地味です。実際、マリアは身寄りも宿も無く、祝福する人もいない中で、キリストを出産するのです。けれども、そんな貧しく、何の権力も持たない庶民の一人一人に「主は目を留められる」のです。世間の脚光が照らすのとは全く異なる所に「救い主の眼差し」が注がれているのです。挫折や後悔に満ちた私たちの人生ですが、思い通りに成った人生だけが祝福ではありません。私たちの人生が、他の誰かの人生よりも劣っている等ということはありません。
朝日研一朗牧師
聖句「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1:45)
1.《命の瀬戸際》 イングマル・ベルイマン監督の映画『女はそれを待っている』は、産婦人科病院を舞台に同じ病室の3人の女性が描かれます。流産直後に再び妊娠して結婚生活を呪っているセシリア、男に騙されて捨てられ、望まぬ妊娠をしたヨルディス、子どもの誕生を心待ちにしているスティナです。しかし、皮肉なことにスティナの子は死産でした。原題は「命の近く」「命の瀬戸際」です。
2.《喜び仕える》 マリアが天使から受胎告知を授かった時、エリサベトは妊娠6ヶ月でした。聖人伝は、訪問の際、マリアは3ヶ月、エリサベトは7ヶ月と言います。「ロザリオの祈り」の「御訪問」には「自分のことよりも、いつも喜んで他人に奉仕する愛する心を深めることが出来るように」との課題が掲げられています。つまり、マリアは自身が心に大きな不安と苦悩を抱えていながらも、咄嗟に他人に手を差し伸べるために動いたのです。「自分よりも他者を優先するのが愛だ」と言われますが、喜びが宿っていることが大切なのです。
3.《喜びの訪れ》 マリアは喜びの余り「急いで行った」のです。「挨拶した」との表現もギリシア人の挨拶「カイレー/喜べ」と繋がります。受胎告知の場面では「おめでとう」と訳されています。その声を聞いて、エリサベトの胎の子は「歓喜に飛び跳ねる」のです。聖霊に満たされたエリサベトはマリア母子を賛美/祝福します。これら全てに喜びが宿っているのです。マリアは自身の懐妊は誰からも喜ばれない、理解されない、祝福されないと思っていました。しかし、この時初めて、自身も胎の子も祝福された存在であることを実感したのです。そして「マリアの賛歌/マグニフィカート」を歌うのです。他の人と喜びを分かち合う時、私たちの悩みや憂いが喜びへと変えられるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(1:20)
1.《競走馬の名前》 私は賭け事はやりませんから、競馬場に足を運ぶことはありませんが、競走馬のネーミングセンスの面白さには、以前から深い関心を持っています。20年程前に中央競馬会に「ザカリヤ」というサラブレッドがいたのです。「クルアーン」の「ザカリーヤー」からの命名ですが、勿論、新約聖書の洗礼者ヨハネの父親、祭司ザカリアのことに他なりません。
2.《人生の同伴者》 クルアーンの記述には、妻のエリサベトの名前がありません。そもそもマルヤム(母マリア)以外に女性の名前はないのです。「ルカ」には「二人とも」なる語が2度も繰り返されていて、この老夫婦が人生を一緒に歩んで来た道程を想像させます。妻が不妊であれば離縁される時代、何等かの罪を犯した故の不妊と誹謗中傷される時代です。非の打ち所の無い信仰が強調される点からも、二人の闘いが読み取れます。また、エリサベトは大祭司「アロン家の娘」ですから、ザカリアは婿養子、立場の弱い恐妻家だったのかも知れません。
3.《二百日の沈黙》 クルアーンでは、ザカリアの口が利けなくなるのは3日間ですが、「ルカ」では「十月十日」です。余りにも長過ぎるので、御言葉を信じなかった天罰や懲らしめのように思われます。しかし神の御力を示す奇跡の「徴」なのです。これまで何度も流産の経験があったのでは無いでしょうか、妊娠安定期の5ヶ月目に入ったエリサベトが、声高らかに宣言するのを見ると、「信じる」も「信じない」もなく、御言葉を「感じる」、そんな感性も求められているように思います。ザカリアの二百日も、主の御言葉を全身全霊で「感じる」ための期間だったのでは無いでしょうか。たとえ不自由を負わされても、神の恵みを体全体で感じる「喜び」が、ザカリアにも臨んだのです。
朝日研一朗牧師