2020年01月14日

1月第3主日礼拝

       1月19日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”神さまのかくれんぼ” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 10章21〜24節(p.126)
讃 美 歌  27、147、490、271、478、29
交読詩篇  詩編101編1〜8節(p.113)

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posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2020年01月13日

子どもがおとなを支えてる【マタイ18:1〜5】

聖句「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(18:3)

1.《自然の子》 江戸時代中期の漢方医、香月牛山の『小児必用養草』には、乳幼児を大切に育てるために必用な心得が記してあります。例えば、離乳に関しても「断乳」を強いることをしません。これは21世紀の母乳育児を先取りしています。強制よりも自然を大切にしているのです。しかし明治以後、子どもは国家目的のために人材育成(教育)の対象とされて行くのです。

2.《小さい人》 弟子たちは、地上での業績が反映されることを前提に、天国での順列を競い合っていました。しかし、主は「パイディオン/幼児」を彼らの真ん中に立たせて、方向転換をして「小さい子として生まれ変わる」ことをしないと、そもそも天国に入れないと仰るのです。4節の「自分を低くして」は「マリアの賛歌」に「身分の低い、取るに足りない」と言われていた語です。大物を目指すべきではないのです。古来、日本には「小さ子」信仰があります。神が幼児の姿を借りて現われ、人に幸せをもたらすのです。まさにクリスマスです。

3.《天国の門》 イエスさまが最後に仰ったのは「私の名のために、このような一人の子どもを受け入れる」ことです。「受け入れる」は「客として迎え入れる」の意味があり、クリスマスの飼い葉桶を思い起こさせます。「認知する、甘受する」もあります。親たち(特に母親たち)は子どもと一緒に生きるために、自分の人生を犠牲にせざるを得ません。しかし実は、その時、私たちが主の支配と加護(御名、御国)に迎え入れられていたのです。石井桃子は「おとなになってからあなたを支えているのは、子ども時代のあなたです」と言いました。あなたの中にある子どもを受け入れる時、天の門が開かれているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:51 | 毎週の講壇から

2020年01月12日

教会の外の掲示板

教会の外の掲示板です。時々「言葉」が変わります。道行く人が立ち止まって眺めておられます。

20200112教会の外の掲示板
posted by 行人坂教会 at 21:42 | 教会アルバム

2020年01月07日

1月第2主日礼拝

       1月12日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”子どもがおとなを支えてる” 音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 18章1〜5節(p.34)
讃 美 歌  27、147、490、189、269、29
交読詩篇  詩編101編1〜8節(p.113)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2020年01月06日

新しい歌のたぐい?【黙示録 14:1〜5】

聖句「彼らは玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。」(14:3)

1.《お目出度さ》 小学唱歌「一月一日」は、♪「年の始めの例とて/終りなき世のめでたさを…」と歌っています。子ども心にも「終りなき世などあるものか」と思っていましたが、改めて歌詞の意味を確認すると「天皇の御世が永遠に続きますように」という祝詞だったのです(作詞の千家尊福は出雲大社の宮司)。穢れた古い年を祓うことで、天皇制の存続をお祈りする歌だったのです。

2.《怪文書誕生》 キリスト者にとってのお目出度さは、世の終わりに救われることです。「ヨハネの黙示録」の内容はそれに尽きます。しかし、意味不明の象徴や数字に溢れていて、決して分かり易い文書ではありません。ドミティアヌス帝の「皇帝礼拝」強制によって流刑に処せられた人物が、迫害時代の只中にあって、ローマ帝国の滅亡の幻を語っているのですから、当時は「怪文書」だったのです。しかし、ローマ帝国が滅亡して久しい現代においては「怪文書」ではありません。オカルトの「怪文書」のようにして読むべきではありません。

3.《新しく歌う》 現代に生きる私たちにとって、「黙示録」の価値は、物事を「終わりから見る」視点です。終わりから現在を見詰め直して、今を如何に生きるべきか考えるのです。今しか見ようとしない人たちは、現権力に迎合するだけで、現状維持と永遠の成長という虚構に執着します。救われた人たちが、神の御前にあって「新しい歌のたぐい」を歌います。直訳すると「あたかも新しい歌であるかのように歌う」のです。新曲ではありません。主の血に贖われて、新しく生まれた人たちが歌っているから「新しい」のです。世の仕組みに追従したままでは「新しい歌として」歌うことは出来ません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:54 | 毎週の講壇から