2020年01月28日

2月第1主日礼拝(創立記念礼拝)

       2月 2日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”人生のローラーチェーン音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  ローマの信徒への手紙 5章1〜11節(p.279)
讃 美 歌  27、118、490、390、382、77、88
交読詩篇  詩編109編21〜31節(p.128)

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2020年01月27日

羊の門【ヨハネ10:7〜18】

聖句「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。」(10:9)

1.《ジンギスカン》 北海道では、花見でも運動会でも、海水浴でも紅葉狩りでも、大学の新入生歓迎会でも、時と所を問わず、仲間が集まれば、ジンギスカンが始まります。東京にも「羊門」「喜羊門」等、ジンギスカン専門店があります。思えば、聖書はイエスさまを食べ物(パン、ワイン、魚、羊)に喩えています。命を繋ぐために無くてはならない食材(贖罪)なのかも知れません。

2.《聞き分けぬ羊》 「羊が命を受けるため」の「受ける」は「捉える」です。「囲いに入っていない他の羊もいる」の「いる」も「捉える」、「その羊をも導かなければならない」は「連れて行くために繋ぐ」です。聞き分けの悪い羊を捕まえて、囲いに誘導する羊飼いの重労働が偲ばれます。囲いの中の羊と「囲いに入っていない他の羊」を対比して、「ユダヤ人と異邦人」「従順な信者と未信者」等と単純に仕分けして読んでしまいがちです。しかし、両者は同じ羊の群れかも知れません。むしろ信者を「囲い込もう」とする教会が怖ろしいです。

3.《命も魂も捨て》 「囲い」は狼の群れや盗人(夜間に来る者)から守るための場に過ぎません。羊の群れは毎日そこから放牧地や水場に出て行き、羊飼いは群れを率いて、外に連れ出すのが務めです。「羊の門」もまた、閉じ込めるためではなく、出入りするために存在します。「教会の外に救い無し」等という方便に利用すべきではありません。羊が受ける「命/ゾーエー」は一般的な語ですが、イエスさまが「羊のために命を捨てる」と仰る時には「魂/プシュケー」という語を使って居られます。主は私たちのために、命も魂さえも投げ出すことを厭われなかったのです。神さまの愛を信頼して居られたが故に…。

朝日研一朗牧師

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2020年01月21日

1月第4主日礼拝

       1月26日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”羊の門” 音楽           朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 10章7〜18節(p.186)
讃 美 歌  7、147、490、359、459、29
交読詩篇  詩編101編1〜8節(p.113)

・讃美歌練習(2月の月歌:118番)   礼拝後    礼拝堂

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2020年01月20日

神さまのかくれんぼ【ルカ10:21〜24】

聖句「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(10:21)

1.《かくれんぼ》 大抵の人は、子ども時代に「かくれんぼ」をして遊んだ経験があると思います。また、物陰に隠れて待ち伏せし、家族や友だちを驚かしたこともあるでしょう。今思えば、遊びの形を借りた愛情表現かも知れません。驚きとその直後の安心、何等かの感情を引き出そうとするのです。その意味では「いないいないばあっ!」の進化形かも知れません。

2.《隠された神》 ラテン語の「隠す/abscondo」には「誰某から保護する」の含みがあります。隠し事や隠し立て等、意地悪をされているような印象を受けますが、隠すことは守られていることでもあります。時に、神さまが御顔を隠されてしまったように感じられることがありますが、私たちを何かから守ろうと為さっているのかも知れません。「隠された神/Deus abscondius」は「愛の神」であるはずの神が、どうして「怒りの神」として災いをもたらすのかという問い掛けです。現代に生きる私たちは、むしろ「神の不在」の課題と捉えます。

3.《神を知る心》 イエスさまは聖霊に満たされて、喜びの叫びを上げて居られます。「神を知ること」が、知者や賢者、聡明な人や学問のある人には隠されたままで、「幼子のような者」に示されたからです。それは、神秘的な奥義を悟ること(グノーシス)ではなく、御心に触れる心(グノーメー)だったのです。「幼子」は「赤ん坊」です。神さまは私たちの成長を願って、人間相手に「いないいないばあっ!」を続けて居られるのです。少し成長した者は「hide-and-seek/かくれんぼ」に参加するべきです。隠れた神を探し、御心を尋ね求めるのです。イエスさまを直に見た弟子たちも、探し求める信仰を続けたのです。

朝日研一朗牧師

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2020年01月14日

1月第3主日礼拝

       1月19日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”神さまのかくれんぼ” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 10章21〜24節(p.126)
讃 美 歌  27、147、490、271、478、29
交読詩篇  詩編101編1〜8節(p.113)

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2020年01月13日

子どもがおとなを支えてる【マタイ18:1〜5】

聖句「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(18:3)

1.《自然の子》 江戸時代中期の漢方医、香月牛山の『小児必用養草』には、乳幼児を大切に育てるために必用な心得が記してあります。例えば、離乳に関しても「断乳」を強いることをしません。これは21世紀の母乳育児を先取りしています。強制よりも自然を大切にしているのです。しかし明治以後、子どもは国家目的のために人材育成(教育)の対象とされて行くのです。

2.《小さい人》 弟子たちは、地上での業績が反映されることを前提に、天国での順列を競い合っていました。しかし、主は「パイディオン/幼児」を彼らの真ん中に立たせて、方向転換をして「小さい子として生まれ変わる」ことをしないと、そもそも天国に入れないと仰るのです。4節の「自分を低くして」は「マリアの賛歌」に「身分の低い、取るに足りない」と言われていた語です。大物を目指すべきではないのです。古来、日本には「小さ子」信仰があります。神が幼児の姿を借りて現われ、人に幸せをもたらすのです。まさにクリスマスです。

3.《天国の門》 イエスさまが最後に仰ったのは「私の名のために、このような一人の子どもを受け入れる」ことです。「受け入れる」は「客として迎え入れる」の意味があり、クリスマスの飼い葉桶を思い起こさせます。「認知する、甘受する」もあります。親たち(特に母親たち)は子どもと一緒に生きるために、自分の人生を犠牲にせざるを得ません。しかし実は、その時、私たちが主の支配と加護(御名、御国)に迎え入れられていたのです。石井桃子は「おとなになってからあなたを支えているのは、子ども時代のあなたです」と言いました。あなたの中にある子どもを受け入れる時、天の門が開かれているのです。

朝日研一朗牧師

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2020年01月12日

教会の外の掲示板

教会の外の掲示板です。時々「言葉」が変わります。道行く人が立ち止まって眺めておられます。

20200112教会の外の掲示板
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2020年01月07日

1月第2主日礼拝

       1月12日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”子どもがおとなを支えてる” 音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 18章1〜5節(p.34)
讃 美 歌  27、147、490、189、269、29
交読詩篇  詩編101編1〜8節(p.113)

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2020年01月06日

新しい歌のたぐい?【黙示録 14:1〜5】

聖句「彼らは玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。」(14:3)

1.《お目出度さ》 小学唱歌「一月一日」は、♪「年の始めの例とて/終りなき世のめでたさを…」と歌っています。子ども心にも「終りなき世などあるものか」と思っていましたが、改めて歌詞の意味を確認すると「天皇の御世が永遠に続きますように」という祝詞だったのです(作詞の千家尊福は出雲大社の宮司)。穢れた古い年を祓うことで、天皇制の存続をお祈りする歌だったのです。

2.《怪文書誕生》 キリスト者にとってのお目出度さは、世の終わりに救われることです。「ヨハネの黙示録」の内容はそれに尽きます。しかし、意味不明の象徴や数字に溢れていて、決して分かり易い文書ではありません。ドミティアヌス帝の「皇帝礼拝」強制によって流刑に処せられた人物が、迫害時代の只中にあって、ローマ帝国の滅亡の幻を語っているのですから、当時は「怪文書」だったのです。しかし、ローマ帝国が滅亡して久しい現代においては「怪文書」ではありません。オカルトの「怪文書」のようにして読むべきではありません。

3.《新しく歌う》 現代に生きる私たちにとって、「黙示録」の価値は、物事を「終わりから見る」視点です。終わりから現在を見詰め直して、今を如何に生きるべきか考えるのです。今しか見ようとしない人たちは、現権力に迎合するだけで、現状維持と永遠の成長という虚構に執着します。救われた人たちが、神の御前にあって「新しい歌のたぐい」を歌います。直訳すると「あたかも新しい歌であるかのように歌う」のです。新曲ではありません。主の血に贖われて、新しく生まれた人たちが歌っているから「新しい」のです。世の仕組みに追従したままでは「新しい歌として」歌うことは出来ません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:54 | 毎週の講壇から