2020年02月22日

蒼ざめた馬を見よ

1.マスク不足

毎月の恒例行事です。掛かり付けのクリニックに行き、血液の検体を取って(簡易キットによる測定もあります)、ドクターと世間話をしました。その後、調剤薬局に行って、処方箋を出して、雑誌を読みながら待っていました。すると、初老の女性が薬局に入って来て、いきなり「マスク、ありますか!?」と叫ぶのです。薬剤師が「いいえ、ありません」と応えるや、すぐに出て行きました。

私は思わず薬剤師と顔を見合わせました。薬剤師は「最近、毎日、ああいうのが何人も来ますよ」と呟きました。「買占めですね」「マスクはウイルスを他人に移さないための物で、自分がウイルス防御をするなら、むしろ介護用手袋(ラテックスの)でも買った方が良いのにね」と言うと、薬剤師は我が意を得たりとばかりに「そうです、そうです。その通りです」と頷いていました。

翌朝のニュースバラエティ番組では、中国人の「転売ヤー」が大挙して日本に乗り込んで来ていて、マスクを買い占めている、しかも、1箱5百円程度のマスクを、中国本土で1万円の高額で売り捌いている等というネタを紹介していました。そう言われてみれば、調剤薬局で叫んだ女性も(中国人かどうかは定かではありませんが)、自分の必要のためではなく、転売目的のように思われました。

妻に頼まれて、近所のドラッグストアに、消毒用のアルコール液を買いに行ったら、これまた、店員から「今日は入荷ありません」と言われる始末。そこで漸く「新型コロナウイルス禍による買い占めか」と悟った次第です。何と呑気なことでしょう。そして世の中には、パニックを煽って、それを機に儲けようとする商売人が大勢いるのですね。

2.ウイルス禍

パニックを煽るのは何も商売人だけではありません。武漢(ウーハン)が「新型コロナウイルス禍」に見舞われたのは、神の裁きであると喧伝している「キリスト教の牧師」も居られるようです。何でも、その牧師によると、中国共産党がキリスト教を弾圧し、会堂を撤去したり、十字架を燃やしたりしたことに対して、「神の怒り」が下ったのだそうです。そんな風に主張なさっている牧師のフェイスブック投稿(写真画像含む)を、私も目にする機会がありました。

実質的に、中国には「信教の自由」は存在せず、政府公認の教団しか運営が許されていません。例えば、カトリックなら「中国天主教愛国会」ですが、バチカンとの国交を認めていない中国では、教皇の叙任権は及びません。プロテスタントの方も「三自愛国教会」「中国基督教協会」がありますが、戦時体制下の「日本基督教団」と同じく、政府の厳しい監視と指導の下に置かれています。その他の教派(特に福音派)は地下教会(家の教会)として活動しています。貧富の格差と共産党独裁という二重の苦しみの中で、数千万人もの人民(レェンミィン)がキリスト教、イスラム、新興宗教に救いを求めていると言われています。

さて、中国保険局によると、2月16日現在、新型ウイルスの感染者は7万人を超え、死亡した人は1770人に及んだとのことです。恐らく、肺炎を発症したり、亡くなったり、家族を亡くしたりした人たちの悲惨な現実があるだけで、そこに「クリスチャンか否か」等という選別は成り立たないと思うのです。「出エジプト記」12章の「過越」のように、災厄がイスラエル人の家の前だけを過ぎ越して、エジプト人の家だけを打つ等と、そんなに都合よくは行っていないと思うのです。

キリスト教に限らず、大きな災害や人災(地震、津波、原発事故、台風、水害、火事、飢饉)が起こると、それを「天罰」「神罰」と捉える固定観念は拭い難く、私たちの脳味噌にこびり付いています。確かに自らの中にある罪や悪を省みるチャンスかも知れません。しかしながら、自分は痛くも痒くもない場所にいながら、他者の苦難に対して「神罰」等と嘯くのは、キリスト者として相応しくありません。東日本大震災の時に「天罰」と放言した石原慎太郎(当時の都知事)級の「低レベル廃棄物」です。

3.疫病と信仰

勿論、旧約聖書では「疫病」は「剣」(他国の侵略)「飢饉」(旱魃)と並ぶ「神罰」です。ヘブライ語の「疫病」、即ち「デベル」は「神罰としての疫病」を、「マッゲーパーハ」も「ネゲフ/打つこと」から派生した語です。神が民を打つのが疫病なのです。

新約聖書では「ロイモス」というギリシア語ですが、面白いことにキリスト教の宣教に対して使われているのです。「使徒言行録」24章5節「実は、この男は疫病(ロイモス)のような人間で…」と、パウロが告発されているのです。ユダヤ教徒からすれば、イエスの福音を広める使徒こそが、非常に厄介な「疫病」のように思われたのでしょう。古代ギリシアには「ドリーア人との戦争(レモス)が起こると、疫病(ロイモス)が一緒にやって来る」という諺があります。イオニア人(アテナイ)の立場から、ドーリア人(スパルタ)との戦争の厄介さを言っているのでしょう。

ラテン語では「疫病」は「ペースティス/pēstis」と言います。ここから「ペスト/黒死病」という語が生まれました。英語の「疫病/ペスタランス/pestilence」の語源です。中世ヨーロッパでは、ペストもまた神罰、もしくは「終末に訪れる大患難の前兆」とされていました。「ヨハネの黙示録」の「青白い馬」の騎手が「死/タナトス」であり、「陰府/ハデース」を引き連れていたように、疫病流行のイメージは大量死と繋がり易いのです。そして、死の現実に直面して初めて、人間は己の非力を悟ります。そこで信仰による救いを願うのです。「助かったら現世御利益、助からなくても極楽」という訳です(やれやれ)。

牧師 朝日研一朗

【2020年3月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 11:52 | ┣会報巻頭言など

2020年02月18日

2月第4主日礼拝

       2月23日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”イエスの名、イエスの道音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  使徒言行録 19章1〜10節(p.251)
讃 美 歌  27、118、490、183、107、88
交読詩篇  詩編109編21〜31節(p.128)

・讃美歌練習(3月の月歌:311番)  礼拝後     礼拝堂

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2020年02月17日

Game Over?【ヨハネ13:36〜38】

聖句「イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』」(13:36)

1.《ペトロの忠誠》 自らが「去っていく」ことを予告するイエスに、「主よ、どこへ行かれるのですか?」と食い下がるペトロ。だがイエスは「ついて来ることはできない」とあしらう。納得できないペトロは「あなたのためなら命を捨てます」とまで言ってみせるが、イエスは彼の裏切りを予告する。その結末を、既に我々は知っている。しかし私は、彼の忠誠が偽物であったとは思わない。

2.《必然的な敗北》 ペトロは心からイエスを信じて、彼のために尽くすことに喜びを感じていたに違いない。だが、その喜びは唐突に奪われた。そのとき、彼は気付いたであろう。自分には何もないということを。たとえ彼が命を捨てたところで、イエスを救うことはできない。彼は良い時しか見ていなかった。イエスによって社会を正しい方向へ導くという使命感と高揚感が、彼の燃える忠誠の源であった。しかし、全ての人間は既に神の愛の中にいるというイエスの教えを真に理解していなかった。彼の敗北は、イエスにしてみれば必然であった。

3.《敗れざるもの》 しかしイエスは、彼が「後でついて来ることになる」とも告げる。彼はいずれ、その胸に真理を宿し、神の愛を本当の意味で知ることになる。ペトロがイエスの死後、復活の証人となり、エルサレム教会の指導者を担ったことは確かである。厳しい迫害の中、宣教に努めた。彼は再び自らに敗北することはなかった。それはきっと、彼が自らの弱さを受け入れたから、イエスが既に彼の弱さをも受け入れていたことも悟ったからだと、私は想像する。イエスは彼の敗北を予見しながらも、それを受け入れ、なお彼が立ち上がり、自らについて来ることを期待した。これが神の愛である。

池内 裕牧師(金沢八景教会)

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2020年02月11日

2月第3主日礼拝(同信会「礼拝交流」)

       2月16日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”Game Over ?音楽  池内 裕牧師(金沢八景教会)
聖  書  ヨハネによる福音書 13章36〜38節(p.196)
讃 美 歌  27、118、490、294、218、88
交読詩篇  詩編109編21〜31節(p.128)

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2020年02月10日

信仰のない私が信じます【マルコ9:14〜29】

聖句「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』」(9:24)

1.《逆説的な真実》 聖書の世界、イエスさまの御言葉は「逆説」に満ちています。例えば「寡婦の献金」の記事では、賽銭箱に1万円を入れる金持ちよりも、50円を献げた寡婦が一番多く奉げたと、主は言われます。明らかに一般的な貨幣価値に反しますが、「彼女は生活費全てを入れた」との真理に私たちは胸打たれるのです。主の示す真実は、私たちの固定観念を木っ端微塵にするのです。

2.《パラドックス》 論理学では「ドクサ/正しい見解」+「パラ/それに反する見解」の合成語で「背理」と言います。しかし、ギリシア語の語源から考えると「私たちの予想を超えた、期待を裏切る」意見です。実際、義人が非とされ、罪人が義とされる逆転が語られるのです。例えば、この父親の叫び「信じます」は信仰告白ですが、それに続く「信仰のない私」は不信仰の告白です。しかし、この信仰の逆説こそが真骨頂です。信仰とは、自らの不信仰を御前に曝け出して神の愛と赦しを乞うことではないでしょうか。

3.《信仰と不信仰》 弟子たちに息子の病気を癒して貰えなかったからでしょうか、この父親は「お出来になるなら」と余計な一言を加えて、イエスさまの逆鱗に触れたかのように訳してあります。しかし「ベザ写本」では「あなたさえ信じることが出来れば」と、父親に信ずるよう促しているのです。それに応えて、父親は「信じます」と叫んだのです。但し、揺るがぬ信仰など持ち合わせていませんから、同時に「この不信仰の故にお助け下さい」とお縋りするより他はなかったのです。「私共をお助け下さい」が「私をお助け下さい」に変化しています。自らの不信仰を曝け出して、救いを求めることが肝要です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:54 | 毎週の講壇から

2020年02月04日

2月第2主日礼拝

       2月 9日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”信仰のない私が信じます” 音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 9章14〜29節(p.78)
讃 美 歌  27、118、490、460、401、88
交読詩篇  詩編109編21〜31節(p.128)

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2020年02月03日

人生のローラーチェーン【ローマ5:1〜11】

聖句「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(5:3,4)

1.《七人の敵が》 その昔「男は敷居を跨げば七人の敵あり」と言われたものです。世間の厳しさを諭す諺ですが、夫が妻子を捨て置く際の方便に使われて来たように思います。加納朋子の小説『七人の敵がいる』では、勝気なヒロインが行く先々で波風を立ててしまいます。同調圧力の強い日本社会では、意見の対立を怖れる余り、個人は何も言えずに我慢する習慣が身に着いてしまいます。

2.《摩擦と圧迫》 日本社会でキリスト者に成ることは、ある意味、波風を立てることです。周囲の無自覚な同調圧力と、その都度、対決を余儀なくされます。この社会では、他の人と同じことをしないで、自分で自分なりの生き方や行動を探そうとすると、何かと苦しいのです。しかし、この苦しさこそが大切です。「苦難」と訳されているのは「圧迫、摩擦」です。「忍耐」は「敢えて、その下に留まる」ことです。「練達」は「実証実験、本物であることの証明」です。信仰者と成るために、摩擦や圧迫を受けて悩むことが求められているのです。

3.《和解の務め》 確かに「苦難、忍耐、練達、希望」は連鎖(チェーン)ですが、人間の努力や業績によって希望に至る階段ではありません。先に希望が与えられているのです(2節)。自転車やバイクのローラーチェーンと同じく、十字架の主から頂いた希望が原動力と成り、信仰者の人生を回しているのです。神と和解させて頂いた(10節)私たちには、イエスさまに倣って、敵対の壁を取り払う「和解の務め」が与えられています。多数が少数を呑み込んで同化するのは暴力です。互いに異なる者たちを、同じ神の子として和解させ、本当の平和を目指して行くのが、真の回復であり復興なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2020年02月02日

創立記念礼拝と愛餐会

創立記念礼拝

20200202創立記念礼拝

愛餐会

20200202愛餐会
posted by 行人坂教会 at 20:48 | 教会アルバム