2020年03月28日

旭日亭菜単(続き)その56

  • 「ゴールデンカムイ」第21巻(野田サトル作、集英社)
    かなり「作画チーム」が充実して来たと思われます。いや、作画だけではありません。物語の展開にも、徒に登場人物を増やしただけではなく、今後それを上手に結んで行く予感があります。205話の「シネマトグラフ」等、「こんな話、要らんだろ」と思っていたら、アシリパさんの両親やキロちゃんの映像が出て来たりして、ハッとさせられます。谷垣とチカパシの別離、アシリパと鶴見中尉の対峙など、凄い展開に息を飲みます。
  • 「ローマ法王」(竹下節子著、角川ソフィア文庫)
    この本のクライマックスは、第4章「ヨハネ=パウロ二世と歴史の激動」にあります。アンティオキア、アレキサンドリアと共に3大司教の1人でしかなかったローマが、どのようにして西欧キリスト教世界を束ねる「教皇」の地位と権勢を獲得して行くに至ったか。また、宗教改革と啓蒙主義の時代、どのようにして、その存在意義を保ったか。そんな歴史を概観した上で、未だ記憶に新しい「東欧革命」「ソ連の解体」を牽引したカロル・ヴォイテワの偉業を見せられるのです。この本は出版社を変える度に、ベネディクト16世、フランシスコの部分が「秘伝のタレ」のように注ぎ足されたのです。教皇に莫大な寄付金を納めている、米国支配階級の団体「コロンバス騎士会」の影響力についても採り上げられている所は、エゾテリスムの研究者である著者の面目躍如です。
  • 「昭和芸能界史/[昭和20年夏〜昭和31年]篇」(塩澤幸登著、河出書房新社)
    「平凡」「平凡パンチ」「Tarzan」等の編集を務めた著者による戦後芸能年代誌。これまでに「あるようで無かった本」です。芸能雑誌「平凡」の資料と統計が物を言う訳ですが、著者は、その年その年の政治や経済にも目配りをしながら、大衆文化の深層に切り込んで行きます。鶴見俊輔や色川大吉などの思想家の記録も引用されますが、大衆文化(その時代の大衆が何を求めているか)に寄り添う著者の視点と覚悟は潔く温かです。近江絹糸の労働争議では、経営者が従業員に対して前近代的な人権抑圧をしていたのですが、その中に「平凡」講読禁止の項目があったというのには驚きました。渡邊晋が「渡辺プロ」を設立する経緯も丁寧に書かれていますが、連れ合いの美佐夫人の一族(曲直瀬家、マナセプロ)は、我が行人坂教会とも多少の縁があります。
  • 「平成怪奇小説傑作選3」(東雅夫編、創元推理文庫)
    東日本大震災後の「破滅時代」に書かれた諸作は粒揃いです。私たちの生きている現実そのものが、今や「ホラー」としか言いようが無いのだと、改めて実感しました。震災を直接題材にしているのは、高橋克彦の「さるの湯」でしょう。しかし、木内昇の「蛼橋」も、有栖川有栖の「天神坂」も、小野不由美の「雨の鈴」も、小島水青の「江の島心中」も、大濱普美子の「盂蘭盆会」も、死者の世界から生者の世界を覗き見ているような物語である点で共通しています(高原英理の「グレー・グレー」なんてゾンビ物ですしね)。民俗学に言う「異種婚姻譚」(宇佐美まことの「みどりの吐息」)や「鬼子伝説」(京極夏彦の「成人」、澤村伊智の「鬼のうみたりければ」)にも、現代特有の閉塞感が表現されています。私の一番のお薦めは、恒川光太郎の「風天孔参り」です。遣る瀬無い孤立感が堪りません。
  • 「中国怪談集」(中野美代子、武田雅哉編、河出文庫)
    王秀楚(ワン・シウチュー)の「揚州十日記」こそは、ケン・リュウの「草を結びて環を銜えん」の素材だったのです。その一点からも推察されるように、『聊斎志異』のような「如何にも」な怪異譚は敢えて外して、現代中国系作家のSFやファンタジーのイメージの源泉を教えてくれるようなセレクトがしてあるのです。魯迅の「阿Q正伝」を入れてあるのにも舌を巻きました。私の一番のお気に入りは、葉蔚林(イェ・ウェイリン)の「五人の娘と一本の縄」です。何と、これはワン・チン監督の名作『五人少女天国行』(1991年)の原作ではありませんか。映画もブッ飛びましたが、原作も凄いです。嫁に出される直前の少女たち5人が集団自殺する話なのですが、その瑞々しさ儚さに胸が締め付けられます。許地山(シュー・ティシャン)の「鉄魚≠フ鰓」には、往年の海野十三の趣きがあります。
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黙示録の四騎士

東京新聞の社説コラム「筆洗」(2020.1.31)によると、国連創設75年の年頭メッセージにおいて、アントニオ・グテーレス事務総長が世界を襲う災厄を「黙示録の四騎士」に譬える発言をしたそうです。彼が事務総長に就任した翌年にも、ほぼ同様の主旨の演説を行なっています。@戦争と紛争、核兵器の脅威、A気候変動、B不平等の拡大、人権侵害、C国粋主義と排外主義、この4つの災厄を挙げて、解決への協力を訴えていました。今回の演説を私は確認していませんが、Cがデジタル技術の悪用に変わっていたようです。

Cの変更は、ベストセラー本『the four/GAFA〜四騎士が創り変えた世界』(東洋経済新報社)を想起させるものでした。著者のスコット・ギャロウェイは、米NY大学経営大学院の教授です。「GAFA/ガーファ」とは、コンピュータやソフトウェアを駆使して世界経済を支配する四大企業、検索エンジンの「Google/グーグル」、デジタルデバイスの「Apple/アップル」、SNSの「Facebook/フェイスブック」、ネットショップの「Amazon/アマゾン」の頭文字です。

「GAFA/ガーファ」は、世界中にネットワークを張り巡らした多国籍企業であると同時に、膨大な個人情報を集積し、「ビッグデータ」として活用しています。つまり、サイバー空間を支配することにより、利用者の消費傾向や動向を左右し、更には、ライフスタイルから思想信条にまで影響を与えることが出来るのです。結果的には、私たちが気付かない内に、社会の在り方まで変化させられているのです。

この「黙示録の四騎士」の出典は、スペインの文豪、ブラスコ・イバニェスが1916年に発表して、世界的なベストセラーと成った小説(Los Cuatro Jinetes del Apocalipsis)です。アルゼンチンの大地主の娘たちがドイツ人、フランス人と結婚して、孫も生まれます。しかし、孫たちが青年期を迎えた頃に、第一次世界大戦が勃発、出征した孫たち(従兄弟たち)は前線で敵味方に分かれて殺し合い、死んで行くという物語です。

ハリウッドで映画化されて(1921年)、ルドルフ・ヴァレンティノがタンゴを踊る場面ばかりに注目が集まりました。この映画にも、終末を思わせる「戦雲」の幻として「黙示録の四騎士」が登場します。白い馬、赤い馬、黒い馬、青白い馬に乗った者たちが次々に現われて、世界に災厄をもたらすのです。それぞれが「征服」「戦争」「飢饉」「死」を象徴しています(「ヨハネの黙示録」6章1〜8節)。時代状況の変化によって「飢饉」が「疾病」と入れ替えられることもあります。

ロープシン(ボリス・サヴィンコフ)の小説『蒼ざめた馬』『漆黒の馬』も、アガサ・クリスティの推理小説『蒼ざめた馬』も、クリント・イーストウッドの映画『ペイルライダー』も、勿論「ガンダム」のモビルスーツも「黙示録」からの引用です。

因みに、日本では「四騎士」と言われますが、聖書本文には「騎士」等という表現は一切ありません。「カテーメノス/馬に乗っている者」、即ち「騎手」です。


【会報「行人坂」No.259 2020年3月発行より】

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キリスト教こんにゃく問答]]W「派遣」

1.伝道

イエス・キリストの福音を、未だ知らない人々、未だ信じていない人々に宣べ伝えて、その人たちを「信徒」とする教会の業を、キリスト教会では「伝道」、もしくは「宣教」と言います。世間で使われる「布教」という語は、教会では余り聞きません。

キリスト教会の「伝道、宣教」は、福音書巻末のイエスの御言葉に根拠が置かれています。

例えば「マタイによる福音書」であれば、28章18〜20節「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」です。

これを福音派の教会では「大使命、大宣教命令/The Great Commission」と言います。英国人の宣教師にして「中国内陸伝道協会/China Inland Mission」の創設者、ジェームズ・ハドソン・テイラー(1835−1905年)が使い始めたと言われています。因みに「義和団の乱」(1900年)の時には、同協会所属の宣教師やその家族が、「義和団」のテロの標的にされて大勢虐殺されたそうです。この時、大人58人、子ども21人が殺害されて、カトリックの「殉教」のような扱いをされています。

ともかく、18〜19世紀には、欧米のプロテスタントの宣教団が数多く設立され、アジアやアフリカの各地に宣教師を派遣しました。明治維新と前後して日本にやって来た宣教師や信徒伝道者も、この世界的な運動の中にあったのです。これを「外国伝道、海外伝道/Foreign mission」と言います。それに対して、欧米国内にも教会生活から離脱した人々が大勢いましたが、彼らを対象とするのを「内国伝道/Home mission」と言いました。

他にも「伝道」の対象によって「盲人伝道/Mission to the blind」「青年伝道/Mission to young adults」「医療伝道/Ministering to the sick」「刑務所伝道/Prison evangelism」等という概念が生まれました。

また「伝道」の方法によって「文書伝道/Literature evangelism」「ラジオ伝道/Radio evangelism」「テレビ伝道/TV evangelism」等とも言われました。特に米国の「テレビ伝道師」は「テレヴァンジェリスト/Televangelist」とも呼ばれ、中には何十億円も稼ぐ人気者まで現われました。最近、IT業界などで、製品の性能やサービスを分かり易く解説する人のことを「エヴァンジェリスト」と呼ぶように成ったのも、ここから来ています。

2.宣教

日本語の「伝道」は「キリストの道(生き方、在り方)を伝える」という意味で、素晴らしい造語だと思います。しかしながら、「伝道」という語に付与されるイメージは、時代や状況に著しく影響を受けて、大きく変化して来ました。先程、わざわざ英語で併記したのは、そのことを見て頂くためです。

日本語では「伝道」と翻訳されている語にも「ミッション」「ミニスタリング」「エヴァジェリズム」がありました。「宣教団、伝道協会」は「ミッション」、「牧会、心のケア、看取り」まで含むと「ミニスタリング」、そして、メディアを利用した幅広い宣伝という場合には「エヴァンジェリズム」が使われているようです。

幕末のプロテスタント開教の際、日本に渡って来た宣教師たちの多くは米国人でした。これは、米国のリバイバル(信仰復興)運動が膨張して、海外へ、遂には太平洋の波涛を越えて日本にまで到達した結果です。

開教以来百数十年間、日本人のキリスト者たちは、米国キリスト教の圧倒的な影響を被りながらも、何とかして自分たちのキリスト教信仰を確立しようと模索して来ました。しかるに、アジア・太平洋戦争の敗戦後、良くも悪くも米国の影響は更に強まってしまいました。ですから、「伝道」についての観念やイメージもまた、米国の海外伝道団体のそれを受け継いでいるのです。その最大の問題点を1つだけ挙げるとすると、近代的な業績主義、膨張主義であることです。「教会を幾つ建てたか」「何人に洗礼を授けたか」「どれだけ教会を成長させたか」に焦点があるのです。これは、米国から海外に派遣される宣教師たちを、宣教団が評価する際の指標だったのです。

さて、そのような「成長主義」的イメージの付き纏う「伝道」という語に代えて、より聖書的な語(聖書に基づく語)として使われ始めたのが「宣教」という語です。「宣教」という語それ自体は、所謂「文語訳」から使われている語です。例えば「コリント人への前の書」1章21節「この故に神は宣教の愚かをもて、信ずる者を救ふを善しとし給へり」とあります。しかし「明治元訳聖書」の「歌林多前書」の同箇所を調べると「是故に神は傳道の愚かなるを以て信ずる者を救を善しとせり」でした。

1879年(明治12年)「元訳」は「傳道」ですが、1917年(大正6年)「改正訳」では「宣教」と変わるのです。これはネストレ版ギリシア語本文を底本としたことと関係があるのでしょうか。私は研究者ではないので、その辺りは不明です。ともかく、以来、戦後の「口語訳」(日本聖書協会訳)、「新共同訳」、「協会共同訳」、一貫して「宣教」が使われています。福音派の「新改訳」でも「宣教」なのです。

「宣教/ケーリュグマ」とは「伝える者(ケーリュクス)として、ニュースを公に宣言する」という意味です。特にキリスト教の「宣教」は「福音(エウアンゲリオン/良き知らせ)を公に宣言する」の意味です。私たちが日曜日の礼拝に集まり、福音の告知(祈りやメッセージ)を聞き、賛美を歌い、声を合わせて応答しているのは、「公の礼拝」を守り「福音の宣言」をしている訳ですから、まさしく「宣教」に他ならないのです。

3.派遣

「昔は『伝導師』と書いた時代もあったのです。まあ、最近の伝道師は『道を伝える』だけで『導かない』から」。

駆け出しの頃の思い出ですが、長年、信徒伝道者を為さっていた方から、そんな皮肉を言われたことがあります。「宣教」に「伝道」…。何と「伝導」もあったのです。「熱伝導」「電気伝導」ならぬ「信仰心の伝導」です。

それでは、私たちが愛する家族や友人を、何とかして信仰に招き入れたいと思っている、この気持ちは何と表現するべきでしょうか。今の私たちの時代状況の中で、果たして「伝道」「宣教」という語がフィットしているでしょうか。

一つの提案として、私は「派遣」を挙げます。先に「大使命、大伝道命令」として紹介した箇所ですが、「新共同訳」「協会共同訳」の小見出しは「弟子たちを派遣する」と成っています。最近では、これを「伝道命令」と言わず「派遣命令」と表現されるのです。「派遣」という語こそは「ミッション」の本来の意味です。

ローマ教会の司祭がミサの終わりに、会衆に告げる言葉「Ite,missa est/イテ・ミッサ・エスト/行きなさい、あなたがたは遣わされています」であり、「礼拝」を表わす「missa/ミサ」の語源も、ラテン語の動詞「mittere/送る」なのです。私たちが礼拝を終えた時、キリストによって誰かのもとへ遣わされようとしているのです。

そうなのです。この世界のどこかに、あなたの訪れ(音ずれ)を待っている人がいるのです。誰かが喜びの知らせを告げ、祝福の音色を響かせる時を待っている人がいるのです。あなたにとって、それは誰なのか、いつ出逢うのか、分かりませんが、自分が遣わされていることを自覚していなければ、きっと素通りしてしまうことに成るでしょう。


【会報「行人坂」No.259 2020年3月発行より】

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