メッセージ:遠ざけられた者の祈り
聖 書:詩編38編10〜16節
讃 美 歌:「教会福音讃美歌」245番「御名をほめたたえる歌声より」1節、2節
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標語 『主イエスの道を歩こう』
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
1.小さな世界
4月5日の「棕梠の主日」の礼拝までは、辛うじて守ることが出来ました。礼拝出席は13名でした。政府や自治体、感染症対策の専門家は、マスコミを通して「土日の不要不急の外出は控えるように」とのアピールを繰り返していましたので、3月以後、礼拝出席者は激減していたのです。特に持病のある方、高齢者は礼拝出席に不安を抱かざるを得ません。家族も心配して「礼拝に行くな」と言います。そして遂に4月7日、「緊急事態宣言」が発出されました。教会の諸集会を全て休止することを(役員と相談の上で)決断し、「教会からの重大なお知らせ」として書面で郵送し、現在に至ります。
しかしながら、教会から何の「音沙汰も無し」と言うのでは「福音」の名折れです。そこで、4月12日のイースターから毎週日曜日、行人坂教会HP上で、5分間礼拝「小さな世界/minutum mundum」という番組を音声配信しています。讃美歌と聖書朗読とメッセージと祈り、それで数分です。
通常の式順通りに「無会衆礼拝」を行ない、その模様(1時間以上)を「YouTube」「Line」「Zoom」「Skype」等を利用して、映像配信している教会もあります。所謂「オンライン礼拝」です。しかし、映像が余り良くないと聞きました。また、誰もいない礼拝堂や牧師の姿だけが映し出され、切り替えも無い映像など退屈極まりありません。
映像配信を行なうツールも準備も無かったというのが正直な所ですが、今回は「音声のみの配信」「数分間に限る」という選択をしました。メッセージの内容は、ノンクリスチャンも共に聴いて下さる事を前提にしました。実際に「未信者の御家族と聴いている」「数分なので一緒に聴いて貰える」という嬉しい反応を頂いています。
2.ぼっち礼拝
この5分間礼拝「小さな世界」、日曜日ごとに1本が配信されていますが、予め週日に2回分ずつ録音されたものです。でも、それとは別に、日曜日午前10時30分から、牧師は独り、礼拝堂で「独りぼっちの礼拝」を守っています。音声配信を利用するか否かは別として(実際、PCやスマホをお持ちでない方たちは利用できません)、この時間に合わせて、各家庭で祈りの時を持って下さっている信徒の方たちがいると信じているからです。
そして何より、日曜日の朝に、主の礼拝堂にあって、祈る者が誰一人いないという状況はあり得ないと思ったのです。神さまに申し訳が立ちません。そこで「独りぼっちの礼拝」を4月12日から始めました。いささか自嘲気味に「ぼっち礼拝」と呼んでいますが、どんな風に礼拝しているのか、具体的に申し上げましょう。
何の準備も無く、聖書と讃美歌だけを携えて、礼拝堂に行きます。@黙想を続けます。A讃美歌を数曲うたいます。Bその合間に聖書を読みます。C声に出して祈ります。E「主の祈り」やF「使徒信条」を唱えます。この7つの要素を順番も決めずに、聖霊の御導きのままに行なっています。
「フレンド派/基督友会/The Religious Society of Friends」、俗に言う「クエーカー/Quakers」の日曜礼拝を経験なさった方はお分かりに成ると思います。プログラムの無い礼拝です。牧師も司式者もいません。どちらかと言えば「沈黙の礼拝」です。「フレンド」の人たちは「内なる光/Inner Light」と言いますが、神の働きに導かれるままに、その礼拝の時を過ごします。私の「ぼっち礼拝」が「フレンド」の礼拝と違うのは、讃美歌をうたうという所だけでしょう。
私の「ぼっち礼拝」は30分と決めています。余り長い時間を続けると、次回に繋がらないと思うのです。毎回、心を集中させて新鮮な気持ちで礼拝するために、時間を限っているのです。勿論、時間を計っている訳では無くて、上の7要素をゆっくりと行なっていると、丁度30分くらいに成っているのです。
3.不要不急?
今回の「コロナ禍」で最も悲しく思ったのは「不要不急」という語でした。主日礼拝に出席する事は、信仰者、クリスチャンの暮らしにとって、何よりも「重要」なはずですが、それが「不要」とされてしまったのです。実際に、未信者の家族から礼拝に行くのを止められた信徒も大勢いらっしゃいます。そこに「不要不急」という看板(大義名分)が立ち塞がっていたはずです。
家族が「控えるように」言うのは、我が身を心配しての事とは分っているのですが、それでも「不要/重要では無い」と言われた事によって、私たちの信仰は深く傷付けられたのです。師岡カリーマ・エルサムニーが「東京新聞」のコラムに書いて居られました。イスラム教のどこかの国では、本来なら礼拝への呼び掛けであるべき「アザーン」の放送が、嗚咽しながら「モスクに来るな」「自宅で待機せよ」と為されたとの由。
その記事を読んだ時、私も胸が詰まりました。本当は、私自身も声を上げて、泣き出したいような気持ちだったのです。そんな思いを無理に押さえ込んで、理性的に装って、礼拝休止を決定したのでした。でも、本当は悲しかった。本当は、魂が引き裂かれるような気持ちだったのです。
個人的に「礼拝を休む」とか「礼拝をサボる」とか、または「礼拝を寝過ごした」とか、そんな事ではありません(そう言えば「アザーン」の一節には「礼拝は睡眠にまさる」というのがありましたっけ)。「公同の礼拝/Ecclesia Catholicus」を休止したのです。これ以上の痛恨事はありません。「主なる汝の神を拝し、ただこれにのみ仕うべし」(「ルカ傳福音書」4章8節)、この主の戒めを守れなかったのです。
牧師 朝日研一朗
【2020年5月の月報より】
主日礼拝、諸集会休止のお知らせ
主の御名を賛美します。
皆様も報道で御存知かと思いますが、去る4月7日、日本政府は、首都圏のコロナウイルス感染拡大防止のため「緊急事態宣言」を発表しました。所謂「ロックダウン/都市封鎖」や「外出禁止命令」を伴うものではありません。しかしながら、これ以上、教会としての集会を続けることは、予防医学の観点からは勿論ですが、道義的にも難しいと判断せざるを得ませんでした。
6日、役員全員の賛同を得て、ここに苦渋の決断をいたしました。
行人坂教会における主日礼拝、CSこどもの礼拝(教会学校)、聖書と祈りの集い、受難日祈祷会、委員会活動、団体活動を、しばらくの間、すべて休止いたします。休止期間、及び活動再開につきましては、「緊急事態宣言」解除を目安として、改めて判断させていただきます。
アジア・太平洋戦争の戦時下においても、私たちの先達は日曜日の礼拝を守って参りました。関東大震災において会堂を消失した際にも、会員のお宅を転々としながら、礼拝は続けられたと聞いています。このような決断に至ったことは、大変に残念でなりません。天上の先達に対しても申し訳なく思います。
会員と教友、その御家族の皆様の上に、天来の御守りがありますように、心よりお祈り申し上げます。主が「羽をもってあなたを覆い/翼の下にかばって」くださいますように。「暗黒の中を行く疫病」からも「真昼に襲う病魔」からも、あなたたちを守ってくださいますように(詩編91編4〜6節)。
そして、病苦に悩む全ての患者の上に主の御癒しが、苦闘する全ての医療従事者の上に主の御導きと御恵みがありますよう、お祈り申し上げます。皆様も心を合わせて、御一緒に事態の収束をお祈りして参りましょう。
2020年4月7日(火) 日本基督教団 行人坂教会 牧師 朝日研一朗
牧師 朝日研一朗
2020年4月12日、私たちは「復活日/イースター」を迎えます。しかし残念なことに、主の復活をお祝いする礼拝に、私たちは参集することが出来ません。辛うじて「受難週」の始まりを告げる「棕梠の主日」は、礼拝を守ることが出来ましたが、「洗足木曜日」の礼拝、「受難日」の祈祷会は断念せざるを得ませんでした。私たちは「受難節/レント」の途中で、その歩みを止めるしかありませんでした。これが首都圏の現状です。
猖獗(しょうけつ)を極める「新型肺炎コロナウイルス」を前にして、国内のみならず、世界中が嘆きと呻きに溢れています。今まさに罹患して苦しんでいる人たち、命を落とさんとする人たち、愛する者を奪われた悲しみと孤独の中に置き去りにされた人たちがいます。多くの人たちが不安の中で逼塞(ひっそく)した暮らしを続けています。こんな状態にあっても尚、働かなくてはならない人たち(食品、運輸、流通、救急、警察)、務めを果たさなくてはならない人たち(特に医療従事者)のことも忘れてはいけません。
英国では「5G(第5世代)移動通信システムがコロナウイルス感染を拡大させている」とのフェイクニュース(虚偽報道)を信じた人たちにより、英国国内数ヶ所で電波塔が放火されたそうです。勿論、完全なデマ(流言飛語)なのですが、ウイルスと同じく、電波もまた目に見えませんし、情報もまた人と人とを繋いだり、人から更に多くの人へ拡散したりするものです。
この報道に接した時、この感染症は「苦しみの連鎖」かも知れないと思いました。人から人へと、人伝(ひとづて)に病苦や死が伝播(でんぱ)して行くのです。しかも、潜伏期間中には自覚症状が無い人、症状が出ても軽い人もありながら、それでいて、感染した他の誰かにとっては致命的であったりするのです。それはあたかも、私たちが他者の苦しみに対して、極めて鈍感、無感覚であることの隠喩(メタファー)のようです。その点、何だか現代社会を反映しているように思われるのです。
「苦しみの連鎖」と言いましたが、苦しむ人と苦しまない人とがいます。ペストやコレラやインフルエンザにも、耐性のある人と無い人、発症する人としない人とがあると思いますが、ここまでの大きな差異は無かったと思います。「陽性」と診断されても、殆ど健康状態に変化の無い人もいるのです。
今たまたま、私たちの健康が保たれているとすれば、今こそ、苦しみの中にある人たちに心を寄せて祈るべきことが是非とも求められています。それは「レント」に当たって、主イエスの苦難と十字架を念ずることに通じます。そのことを通してのみ、私たちは「復活/イースター」へと到達することが出来るのです。
私たちは、苦しみ悩む人たちのために、喘ぎ苦しむ世界のために祈りましょう。「苦しみの連鎖」を「祈りの連鎖」へと変えて参りましょう。
(2020年4月7日)
聖句「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(16:24)
1.《聖十字架伝説》 人類の祖アダムが臨終に際して、息子セトをエデンの園に遣わして持ち帰らせた「命の木」の小枝から三聖木が育って、それが十字架の木材に使われたという伝説があります。あるいは、ノアの箱舟の竜骨、燃える柴、モーセの杖、ソロモンの橋を経て、十字架の木材と成り、コンスタンティヌス大帝の母后ヘレナが発見して、聖遺物とされたとの伝説もあります。
2.《ウィルトゥス》 聖遺物は中世の人々にとって崇敬の対象でした。神の御力が宿り、それに触れる者にも見る者にも、保管した容器や安置した場所にすら、ウイルスのように聖性の力(ウィルトゥース)が伝染すると信じられていたのです。近年、寺社巡りで「パワースポット」「パワーが貰えた」と語られるのと同じです。何の信者であろうと無かろうと、誰もが幸せを求めて、聖なる力に頼ります。十字架にも聖なる力があると信じられていたのです。教会に掲げられた十字架も単なる目印ではなく、主の御守りを願っての物です。
3.《見よ十字架を》 しかし本来、十字架は苦しみと不幸の象徴でした。日本社会では、不幸や死を厄として払い、蓋をしてしまいますが、「割れ鍋に閉じ蓋」と言わざるを得ません。どんな人の人生にも必ず十字架があるのです。それを捨て置いたり、他人に背負わせたりするのではなく、自らが取り上げて携え行くのが人生です。「自分を捨てる」は「自らを否認する」です。ペトロがイエスさまを否認してしまうことを予告しています。イエスさまと自分は「関係が無い」と言うのではなく、イエスの十字架を認め、十字架を見上げることが求められています。「あなたが苦しむ所に、私もいる」と主は言われます。
朝日研一朗牧師