説 教 ”神さまの宿題はレポート”

聖 書 ローマの信徒への手紙 10章14〜21節(p.288)
讃 美 歌 27、138、490、226、405、28
交読詩篇 詩編126編1〜6節(p.147)
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標語 『主イエスの道を歩こう』
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
聖句「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』」(8:24)
1.《歩く木》 中南米の熱帯雨林には「歩く椰子の木」があるそうです。幹から突き出た「支柱根」が日向で成長し、日陰は枯れるので、結果的には年10センチ程移動しているのです。ガジュマルの「気根」も同じです。トールキンの『指輪物語』の森の番人エント、ウィンダムの『トリフィド時代』の食人植物など、ファンタジーの世界では「歩く木」が登場することがあります。
2.《木の人》 本田哲郎神父は、この盲人の言葉を「人たちが見えます。木のようなのが歩いているのが分かります」と訳して居られます。少しユーモラスですが、この盲人の人生の苦難を思えば、滑稽とまでは言えません。奇跡の舞台は、ベトサイダの「村の外」ですから、彼が目撃した「木のような人」は野良仕事から帰る農民、旅人の一行だったのかも知れません。ベトサイダは「町」とも「村」とも言われる規模の集落でした。この盲人が視力の回復途上で目にした何かも「人」とも「木」とも映り、その違いは曖昧だったのでしょう。
3.《旅の人》 「どうしてイエスさまは一発で癒して上げられなかったのか?」と呟く人がいますが、見えなかった目が少しずつ見えるようになる、このプロセスにこそ、この奇跡のリアリティがあると思います。「見る」の動詞もギリシア語で4種類も使われていて「見る」にも色々あるのです。「木を見て森を見ず」と言いますが、私たちが見落とす事柄も多いのです。星野道夫の『旅する木』では、トウヒの種子が大木となり、流木となり、薪として燃やされ、灰として大気を漂い…、そんな壮大な旅が紹介されています。私たちは永遠に生きられる訳ではありませんが、私たちも永遠の時の中で生かされているのです。
朝日研一朗牧師
1.自発的奉仕
去る4月7日、日本政府は「改正新型インフルエンザ等対策特別措置法」に基づき「緊急事態宣言」を「発出」しました。それを受けて、東京都は都内事業者に対する「休業」と都民に対する「外出自粛」を要請しました。
私たちの教会でも、信徒(教会員と教友、教会学校の子どもたちと家族)の生命と健康を最優先に考えて、教会の諸集会を完全に休止しました。そして、当初5月6日までとされていた「休業要請期間」は延長されて、5月31日まで続きました。
折りしも5月31日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)当日でした。幾つかの福音派教会では、この日を記念して大きなイベント(「伝道集会」「決起集会」「復興聖会」等)を打っていました。私たちの教会では、ペンテコステは辛抱して、もう1週間の猶予をもって準備をして、6月7日の三位一体主日から主日礼拝を再開としました。それでも、礼拝出席や公共交通機関の利用、外出そのものに不安を感じる人たちも多いと思いましたので、奉仕の当番を外した上で、「無理して礼拝に出席しなくても良い」「家族の反対を押し切ってまで来ることは無い」と通知しました。
実際には矛盾もあります。コロナ禍以前と同じく「奏楽者/オルガニスト」は当番制で奉仕を続けて居られます。礼拝の「司式者」には事前の祈りと準備が欠かせません。誰かが予め引き受けなくてはなりません。当日、早めに来て受付に立つ「礼拝担当者」も同様です。私たちの教会の場合、「司式」と「担当」は、役員と役員経験者による奉仕と成っていますが、現在までの所、自発的な申し出に委ねています。
2.礼拝の継続
そう言えば、所謂「自粛期間」の中にあっても、牧師と役員だけで礼拝を続けていた教会がありました。役員(教派によっては「長老」「執事」等とも言う)は一般信徒(平信徒)とは異なり、教会形成に対して特別な責務を負うと考えられているのです。
同じプロテスタント教会でも、カルヴァン派の流れを汲む教会では、「長老/Presbyter」は牧師や神学教師と共に「平信徒/Layman」の訓練に携わる特別な立場にあります。因みに、「執事/Deacon」と言う場合には、本来、施与や慈善などの奉仕に当たる者ですが、現在では、教会運営を主導する「役員」と同様の意味で使われるように成りました。それはともかく、牧師もまた「宣教長老」、長老の一人に過ぎません。と言う訳で、「自粛期間」にも拘わらず、牧師と長老(役員)だけで礼拝を守り続けた教会があったのです。
会衆派の流れを汲む教会(私たちの教会もそうですが)では、牧師を含めて、礼拝出席者の全員が「会衆/Congregation」という立場を採ります。ですから、「会衆/集められた人たち」がいないにも拘わらず、礼拝を行なう必要はありません。しかし、大規模教会では、牧師や副牧師、伝道師、主事だけで礼拝を守っていたようです。
カトリック東京大司教区は3月半ばには「非公開ミサ」としました。つまり、一般信徒が「主日ミサに与る義務を免除」したのです。カテドラル(大聖堂)では、聖職者だけで典礼を行ない、中小規模教会では「司祭が自室でミサを奉げた」そうです。プロテスタント教会の対応(牧師と役員だけで礼拝を守る、教職だけで礼拝を守る)も概ね、カトリックの「非公開ミサ」を参考にしていると思います。
そもそも、礼拝出席10人前後の小規模教会では、いつもと同じように礼拝をしていたという話も伝え聞きました。但し、近所の「自粛警察」からのクレームと飛沫感染を怖れて、声を出さずに讃美歌の歌詞を心の中で読んだそうです。
これを機に「YouTube」「Zoom」等による映像のネット配信を始めた教会もありました。何が正しい事なのかはさて置き、どの教会も苦労していますね(苦笑)。
3.やってる感
教会の姿勢として、日曜日の礼拝は何が何でも続けるという意識が働いているのです。出来る限り「休止」という語は使いたくないみたいです。「非公開ミサ」やってる、「ネット配信」やってる、少人数礼拝やってる、教職だけの礼拝やってる…。「やってる感」を大切にしていたのです。自粛で「開店休業」状態のラーメン屋と同じく、悲痛な「やってる」が各個教会でも展開されていたのです。斯く言う私も、日曜日の定時には礼拝堂に行き、30分から1時間を祈ったり、賛美したりして過ごしていました。
コロナウイルスの「コロナ/冠」という語との関連で「coronat fides/コローナート・フィデース/信仰は冠す」というラテン語の成句を思い出しました。「信仰は必ず報いられる」という意味です。但し、「とにかく主日礼拝だけは守り続ける」という拘りが、本当に「信仰」と言えるのか、これについては吟味が必要です。単なる「やってる感」のもたらした自己満足では無かったのか。つまり、これらの礼拝やミサは、本当に神さまとの応答や交流をもたらしていたのか、それが問われるべきでしょう。
ネット配信の場合などが具体的に分り易いと思いますが、メッセージや賛美や祈りを在宅の信徒に届けると言ったら綺麗ですが、「ちゃんと礼拝を続けていますよ」というアリバイのようにも思われるのです。つまり、人に届けることにのみ執心していて、そこで神さまの御臨在は置き去りにされている、そんな面は無かったと言い切れるでしょうか。これは、私自身の「5分間礼拝」配信に対する反省でもあります。
礼拝堂で、私が独り行なっていた「ぼっち礼拝」も然り。執り成しの祈りを忘れなかったつもりですが、続ける内「やってる感」に終始していたかも知れません。やはり、礼拝は召され集められた者たちが時間と空間を共にする処から生まれると、私は思っています。
牧師 朝日研一朗
【2020年7月の月報より】
聖句「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」(16:11)
1.《盗賊と義賊》 盗賊は他人の財産を盗む犯罪者、悪党です。しかし、民衆から「義賊」として称えられる者たちもいます。「梁山泊」頭目の宋江、鼠小僧次郎吉や石川五右衛門、デリンジャー、女盗賊プーラン等です。フィクションの世界では、ロビン・フッド、ルパン、怪傑ゾロが思い出されます。彼らが「義賊」と呼ばれるのは「弱きを助け、強きを挫く」からに他なりません。
2.《マモン洗浄》 この「いんちきマネージャー」も悪党です。金持ちの主人から預かっている財産を横領、嘘の会計報告をしたことがバレたのです。その時に彼が取った行動は、主人の債務者から利息を棒引きすることでした。「不正にまみれた富/マモン」を「喜捨」によって清めたのです。それによって、主人の債務者たちに恩を売って、解雇された時の備えをしたのみならず、主人の持つ「不正にまみれた富」を「資金洗浄/マネーロンダリング」したのです。だからこそ、更なる損失を被った主人が、彼の「抜け目ないやり方」を褒めているのです。
3.《富の使い道》 同胞から利息を取ること自体が「不正」なのです。その「不正にまみれた富」が「いんちきマネージャー」の機転によって「真の富」「本当に価値あるもの」へと変えられたのです。「小事に忠実な者は大事にも忠実なり」と言われますが、「小事」とは、正しい「富の使い道」、困窮者を助けるという信仰者としての義務を意味します。「大事」は、天地万物を創造された神さまのことです。コロナ禍によって休業を余儀なくされた中小企業や店舗、個人事業者が悲鳴を上げていますが、他方「持続化給付金」は一部の企業や天下り役人によって中抜きされています。権力による搾取そのものです。
朝日研一朗牧師
聖句「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」(7:9,10)
1.《ダラバ?》 NHKで『夢食堂の料理人』という単発ドラマがありました。1964年の東京五輪の選手村に出来た「富士食堂」が舞台です。世界各国から集まった7千人の選手団に食事を提供するために、日本各地から招聘された3百人のコックが悪戦苦闘します。主人公のコックが、ホームシックのアフリカ選手を励ますために、チャドの郷土料理「ダラバ」に挑戦するのでした。
2.《色々な魚》 その魚料理にはティラピアを使いますが、当時、日本に無かったので、マダイを代用していました。福音書のペトロゆかりの魚とされるのが、そのティラピア(カワスズメ)です。ガリラヤ湖には他にも、ユダヤ教徒が安息日に食べるニゴイ、大量に網に掛かるイワシの仲間があります。「魚を欲しがる我が子に、蛇を与えるバカ親がいるか?」と、イエスさまが仰るのは、ガリラヤ湖のナマズが蛇のように長かったことからの類推とされます。鱗や鰭の無い魚は、旧約の律法で食べることを禁じられていたのです。
3.《パンと魚》 似ていると言うなら、当時のパンはフスマを除いていませんから色も黒く、丸いので石ころのようでした。パレスチナは石ころだらけの土地です。でも、親がパンと石、魚と蛇を間違って、子に与えることはありません。同じく天の神さまも、求める人たちには「良い物」をくださいます。思えば、パンも魚も、イエスさまのシンボルでした。大切なのは、探し求める心、諦めないでドアを叩き続ける根性です。それを育むのが、キリスト教の祈りです。誰でも最初からある訳ではありません。子どもも大人も同じ、「三匹の鯛」の喩えの通り、褒められ認められて、自信とやる気が養われるのです。
朝日研一朗牧師