2020年06月28日

信仰は冠す coronat fides

1.自発的奉仕

去る4月7日、日本政府は「改正新型インフルエンザ等対策特別措置法」に基づき「緊急事態宣言」を「発出」しました。それを受けて、東京都は都内事業者に対する「休業」と都民に対する「外出自粛」を要請しました。

私たちの教会でも、信徒(教会員と教友、教会学校の子どもたちと家族)の生命と健康を最優先に考えて、教会の諸集会を完全に休止しました。そして、当初5月6日までとされていた「休業要請期間」は延長されて、5月31日まで続きました。

折りしも5月31日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)当日でした。幾つかの福音派教会では、この日を記念して大きなイベント(「伝道集会」「決起集会」「復興聖会」等)を打っていました。私たちの教会では、ペンテコステは辛抱して、もう1週間の猶予をもって準備をして、6月7日の三位一体主日から主日礼拝を再開としました。それでも、礼拝出席や公共交通機関の利用、外出そのものに不安を感じる人たちも多いと思いましたので、奉仕の当番を外した上で、「無理して礼拝に出席しなくても良い」「家族の反対を押し切ってまで来ることは無い」と通知しました。

実際には矛盾もあります。コロナ禍以前と同じく「奏楽者/オルガニスト」は当番制で奉仕を続けて居られます。礼拝の「司式者」には事前の祈りと準備が欠かせません。誰かが予め引き受けなくてはなりません。当日、早めに来て受付に立つ「礼拝担当者」も同様です。私たちの教会の場合、「司式」と「担当」は、役員と役員経験者による奉仕と成っていますが、現在までの所、自発的な申し出に委ねています。

2.礼拝の継続

そう言えば、所謂「自粛期間」の中にあっても、牧師と役員だけで礼拝を続けていた教会がありました。役員(教派によっては「長老」「執事」等とも言う)は一般信徒(平信徒)とは異なり、教会形成に対して特別な責務を負うと考えられているのです。

同じプロテスタント教会でも、カルヴァン派の流れを汲む教会では、「長老/Presbyter」は牧師や神学教師と共に「平信徒/Layman」の訓練に携わる特別な立場にあります。因みに、「執事/Deacon」と言う場合には、本来、施与や慈善などの奉仕に当たる者ですが、現在では、教会運営を主導する「役員」と同様の意味で使われるように成りました。それはともかく、牧師もまた「宣教長老」、長老の一人に過ぎません。と言う訳で、「自粛期間」にも拘わらず、牧師と長老(役員)だけで礼拝を守り続けた教会があったのです。

会衆派の流れを汲む教会(私たちの教会もそうですが)では、牧師を含めて、礼拝出席者の全員が「会衆/Congregation」という立場を採ります。ですから、「会衆/集められた人たち」がいないにも拘わらず、礼拝を行なう必要はありません。しかし、大規模教会では、牧師や副牧師、伝道師、主事だけで礼拝を守っていたようです。

カトリック東京大司教区は3月半ばには「非公開ミサ」としました。つまり、一般信徒が「主日ミサに与る義務を免除」したのです。カテドラル(大聖堂)では、聖職者だけで典礼を行ない、中小規模教会では「司祭が自室でミサを奉げた」そうです。プロテスタント教会の対応(牧師と役員だけで礼拝を守る、教職だけで礼拝を守る)も概ね、カトリックの「非公開ミサ」を参考にしていると思います。

そもそも、礼拝出席10人前後の小規模教会では、いつもと同じように礼拝をしていたという話も伝え聞きました。但し、近所の「自粛警察」からのクレームと飛沫感染を怖れて、声を出さずに讃美歌の歌詞を心の中で読んだそうです。

これを機に「YouTube」「Zoom」等による映像のネット配信を始めた教会もありました。何が正しい事なのかはさて置き、どの教会も苦労していますね(苦笑)。

3.やってる感

教会の姿勢として、日曜日の礼拝は何が何でも続けるという意識が働いているのです。出来る限り「休止」という語は使いたくないみたいです。「非公開ミサ」やってる、「ネット配信」やってる、少人数礼拝やってる、教職だけの礼拝やってる…。「やってる感」を大切にしていたのです。自粛で「開店休業」状態のラーメン屋と同じく、悲痛な「やってる」が各個教会でも展開されていたのです。斯く言う私も、日曜日の定時には礼拝堂に行き、30分から1時間を祈ったり、賛美したりして過ごしていました。

コロナウイルスの「コロナ/冠」という語との関連で「coronat fides/コローナート・フィデース/信仰は冠す」というラテン語の成句を思い出しました。「信仰は必ず報いられる」という意味です。但し、「とにかく主日礼拝だけは守り続ける」という拘りが、本当に「信仰」と言えるのか、これについては吟味が必要です。単なる「やってる感」のもたらした自己満足では無かったのか。つまり、これらの礼拝やミサは、本当に神さまとの応答や交流をもたらしていたのか、それが問われるべきでしょう。

ネット配信の場合などが具体的に分り易いと思いますが、メッセージや賛美や祈りを在宅の信徒に届けると言ったら綺麗ですが、「ちゃんと礼拝を続けていますよ」というアリバイのようにも思われるのです。つまり、人に届けることにのみ執心していて、そこで神さまの御臨在は置き去りにされている、そんな面は無かったと言い切れるでしょうか。これは、私自身の「5分間礼拝」配信に対する反省でもあります。

礼拝堂で、私が独り行なっていた「ぼっち礼拝」も然り。執り成しの祈りを忘れなかったつもりですが、続ける内「やってる感」に終始していたかも知れません。やはり、礼拝は召され集められた者たちが時間と空間を共にする処から生まれると、私は思っています。

牧師 朝日研一朗

【2020年7月の月報より】

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