2020年07月28日

8月第1主日礼拝(平和聖日)

       8月 2日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”神の言葉は鎖に繋がれない音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  テモテへの手紙U 2章8〜13節(p.392)
讃 美 歌  27、428、490、491、237、29
交読詩篇  詩編68編1〜11節(p.75)

・臨時総会     正午〜午後3時     礼拝堂

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2020年07月27日

み名があがめられますように【使徒言行録19:11〜20】

聖句「このことがエフェソに住む…人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。」(19:17)

1.《主の祈り》 コロナ禍の時代に入り、今や礼拝出席が「信仰の砦」と言い切れなくなって参りました。集会そのものに不安を感じる人がいる状況の中、キリスト教信仰の「最後の砦」と言えるのは「主の祈り」です。私たちの祈りと願いは各人多様です。クリスチャンと言えども、教派によって信条は異なります。しかし「主の祈り」を唱えるという一事だけは変わらないのです。

2.《皆の祈り》 17世紀の魔女裁判では「主の祈り」が唱えられず処刑された人もいました。こうなると命懸けです。前半の「御名・御国・御心」を求める祈りの中では、地上での「御国の完成」「御心の成就」は遠いかも知れません。しかし「御名」をあがめることだけは日常的に出来ることです。私たちの礼拝がそうです。また、未信者や他宗教の人であっても、教会の業に賛意を示したり、協力してくださるなら、即ち「御名」があがめられているのです。エフェソの住民たちがそうでした。「御名の祈り」こそは「皆の祈り」なのです。

3.《神を仰ぐ》 「あがめる」は「メガリュノー」の受身「大きくなる」です。「主の祈り」の「あがめる」は「聖とする」、「テサロニケの信徒への手紙U」では「栄光を帰する」という動詞が使われています。しかし、その心は1つです。私たちの名ではなく、神さまの御名こそが賛美されますようにとの祈りです。パウロの時代にも、イエスさまのお名前を利用して悪魔祓いをする祈祷師たちがいました。今も主の御名を利用して、教祖を飾ろうとする新興宗教やカルトは後を絶ちません。「仰げば尊し我が師の恩」と歌われます。儒教です。米国の歌集にある原曲では、主の御もとでの再会を約束する歌なのです。

朝日研一朗牧師

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2020年07月21日

7月第4主日礼拝

       7月26日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”み名があがめられますように音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  使徒言行録 19章11〜20節(p.251)
讃 美 歌  27、138、490、63@〜A、63B〜C、28
交読詩篇  詩編126編1〜6節(p.147)

・讃美歌練習(8月の月歌:428番)    礼拝後    礼拝堂

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2020年07月20日

疲れた使徒たちのレスパイト【マルコ6:30〜44】

聖句「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。」(6:31)

1.《現代人の疲れ》 こんなにも私たちが疲れ果てているのは、産業革命以降、急速に激変する生活環境に適応できないからです。その筆頭に挙げられるのは、都市の人口過密です。多くの実験動物を狭いケージの中に入れたままにして置くと、ストレスで死んだり殺し合いを始めます。しかし、人間は過酷な環境に置かれても耐えているのです。疲れるのも当たり前なのです。

2.《休息を求めて》 十二使徒はイエスさまに派遣されて宣教の旅に出掛けていたのですが、今漸く帰って来たのです。疲れ果てていました。しかし、イエスさまの周囲には、癒しや教えを求める人が出入りしていて休養できません。そこで「人里離れた所」で「休み」を取るように、主は言われたのです。アリストテレスは「休み」を3つに分類しています。「パイディア/娯楽」「アナパウシス/疲労回復のための保養」「スコレー/真理を求めるためのゆとり」です。ここに出て来る「休み」は「アナパウシス」ですが、3つのバランスが大切なのです。

3.《息を吹き返す》 ところが、舟で湖を渡ってみると、そこにも群集が押し寄せていました。使徒たちの休息は台無しに成ってしまいました。使徒たちは「早く解散させましょう」と進言します。「自分で…何か食べる物を買いに行くでしょう」は「自己責任論」です。それに対して、群集の寄る辺なさに心痛められた主は「あなたがたが食べ物を与えなさい」と仰り、奇跡を起こされました。食べ終わって皆が満腹しても、尚「十二の籠」がパンと魚で満たされました。十二人の使徒たちも満たされたのです。「レスパイト」とは「息を吹き返す」こと、イエスさまの聖霊(愛)を受けて癒され、生き返ることなのです。

朝日研一朗牧師

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2020年07月14日

7月第3主日礼拝

       7月19日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”疲れた使徒たちのレスパイト音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 6章30〜44節(p.72)
讃 美 歌  27、138、490、87、432、28
交読詩篇  詩編126編1〜6節(p.147)

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2020年07月13日

女やもめに花は咲くか?【マルコ12:41〜44】

聖句「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12:44)

1.《プレゼント》 米国のクリスマスソング「リトル・ドラマー・ボーイ」では、貧しい少年が小太鼓を叩いて、御子イエスの誕生を祝います。アナトール・フランスの小説『聖母の軽業師』では、修道士に成った元軽業師が聖母を讃えるために礼拝堂でジャグリングをします。それを見咎めた他の修道士たちは「冒瀆」と非難しますが、聖母が祭壇を降りて来て、軽業師の汗を拭うのです。

2.《砕かれた心》 何を奉げるか、幾ら献金するかではないのです。神の御前に自分自身を投げ出すのです。それを「献身」と言います。それこそが信仰の核心です。「詩編」51編では「打ち砕かれた霊」「打ち砕かれた心」と言われます。世間では「もう心が折れてしまいそう」と否定的に言われますが、信仰の世界では、心の折れた人のみが御前に進み出ることが出来るのです。エゴイズムに満ちた人や自信満々、得意満面の人は御前に近付くことすら出来ないのです。自らに絶望した人だからこそ、神さまに希望を託すしかないのです。

3.《生活費全部》 ある貧しい寡婦が神殿の賽銭箱にレプトン銅貨2枚を入れました。「レプトン」とは「薄い物」、当時の最小単位の硬貨でした。今風に言えば「ワンコイン」百円です。2千年前の聖書に「生活費/ビオス」という語が出て来るのが驚きです。「ビオス」には「人生、生涯、生活」の意味もあります。寡婦の生活の行き詰まりが偲ばれます。暮らしが成り立たない、生計が折れてしまっているのです。ここには何も安易な解決策は提示されていません。イエスさまも彼女を見詰めているだけです。けれども、苦しみや悲しみの中から注ぎ出されるものに、主なる神さまは目を留めて居られるのです。

朝日研一朗牧師

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2020年07月07日

次週「聖書と祈りの集い」休会のお知らせ

2020年7月15日(水)の「聖書と祈りの集い」は朝の部・夜の部共に休会となります。   
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7月第2主日礼拝

       7月12日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”女やもめに花は咲くか?音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 12章41〜44節(p.88)
讃 美 歌  27、138、490、6、512、28
交読詩篇  詩編126編1〜6節(p.147)

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2020年07月06日

神さまの宿題はレポート【ローマ10:14〜21】

聖句「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(10:17)

1.《課題レポート》 コロナ禍で自粛していた業種が次々と再開する中、大学だけは一向に再開の兆しが見えません。大学生はオンデマンドの遠隔授業を受けていますが、多くは配信された動画を見て、課題レポートを提出するものです。中には、受験以来、キャンパス内に足を踏み入れたことのない新入生もいるそうです。高額な学費(特に施設設備費)の減額や割引もありません。

2.《何を聞くのか》 戦前からの信徒は「信仰は聞くにより」を胸に刻み、聖日厳守主義で礼拝を休みませんでした。大正文語訳の「信仰は聞くにより、聞くはキリストの言による」です。「聞くこと」は、英訳聖書では単に「hearing」ですが、独語訳「ルター聖書」や「チューリヒ聖書」では「die Predigt/説教」と訳されていて、牧師の説教こそが信仰の入口と主張されています。また「新改訳」は「キリストの言葉」を「キリストについての御言葉」と意訳することで、「イエスさまの発言」ではなく「キリストについての証」「キリスト信仰を告白すること」こそが信仰の始まりであると主張しているのです。

3.《レポート提出》 私は牧師の説教だけが「聞くこと」だとは思いません。それでは、余りに了見が狭い。漢訳聖書「和合本」には「聽道」とあります。「信仰は聴く道」なのです。ラテン語訳「ウルガタ」の「auditio」は「オーディオ」の語源です。賛美の歌声、オルガン、音楽、人々の話に耳を傾けることも信仰に繋がるのです。ある英語の註解は「聞くこと」を「report」と訳しています。信仰とは、主の弟子たちが後世の私たちのために残したレポートです。私たちも、キリストの「命令/レーマ」を受けて、ありのままを、御前に差し出して行きたいと思うのです。主から求められているのは真心のみです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から