2020年08月31日

旭日亭菜単(続き)その60

  • 「短編ミステリの二百年vol.2」(レイモンド・チャンドラー、マージェリー・アリンガム他著、小森収編、猪俣美江子他訳、創元推理文庫)
    とにかく、このシリーズ、収録作品そのものはアッと言う間に読み終えられるのですが、巻末の小森収の連載(?)評論が非常に時間を食います。但し、これを読まずに済ませられるかと問われれば、否と言う他はありません。本編の方は…と言うと、やはり、ハメットの「クッフィニャル島の略奪」がベストでしょうか。私立探偵が自らのプロ意識を吐露する場面には、宗教的召命観(Calling)すら感じさせます。それに比べると、ホイットフィールドの「ミストラル」、チャンドラーの「待っている」は、いずれも「標的」に感情移入してしまいます(そこが魅力なのですが)。グルーバーの「死のストライキ」に登場する「人間百科事典」オリヴァー・クエイド、スタウトの「探偵が多すぎる」の美食探偵ネロ・ウルフ、アリンガムの「真紅の文字」のアルバート・キャンピオン等、今回は、さながら「探偵物語」特集と言ったところです。
  • 「日本怪談集/取り憑く霊」(種村季弘編、河出文庫)
    三浦哲郎の「お菊」は、タクシー運転手が幽霊を乗せるという定番の話でありながら、どうして、こんなにも胸を打つのでしょうか。「ユタと不思議な仲間たち」と同じく現代の民話として、何等かの真実が核に成っているのでしょう。「あれが生きた人間以外のなにかだったら、自分も含めて世の中の人はみんな同類だと思いました」の言葉に震えます。藤本義一の「足」、舟橋克彦の「手」、江戸川乱歩の「人間椅子」、田中貢太郎の「籠の中の顔」と並べる辺りがアンソロジストの妙味でしょう。藤本の「足」が絶品です。幾ら変事でも死体が見付からないと「事件」が成立しないという導入からしてワクワクさせます。そして因縁譚のようなオチの付け方で「怪談」が完成するのです。森銃三の「碁盤」、柴田錬三郎の「赤い鼻緒の下駄」、吉田健一の「幽霊」等、所謂「ジェントル・ゴースト物」も忘れ難い読後感です。
  • 「日本怪談集/奇妙な場所」(種村季弘編、河出文庫)
    東雅夫のアンソロジー、作家の短編集で既読という作品も少なくないのですが、それでも夏に「怪談」は外せません。森鷗外の「鼠坂」と大岡昇平の「車坂」は、日露戦争と日中戦争、従軍記者と兵隊の違いはあれど、余りにも同工の作なので驚きました。戦時下に姑娘(クーニャン)をレイプして殺害した男の物語が宴席で語られ、翌日には、その呪いが発現します。中学の国語の教科書には「高瀬舟」等は止めて「鼠坂」を載せるべきです。笹沢左保の「老人の予言」の既視感の怖さ、吉行淳之介の「出口」の姿を現わさない存在の戦慄、半村良の「終の岩屋」には、高橋克彦の「さるの湯」、恒川光太郎の「風天孔参り」の原点だったと確信しました。
  • 「久生十蘭短篇選」(久生十蘭著、川崎賢子編、岩波文庫)
    ヨーロッパの怪奇短編の世界から、日本の作家に軸足を移そうと思ったら、丁度よい本がありました。諸作の多くが敗戦後を舞台としながら、とても貴族趣味的な十蘭です。フランス人の家庭教師とか、パリ留学とかが自然に出て来ます。「ルウレットを征服するのは…絶対の無関心」と主張する「黒い手帳」は、ドストエフスキーの短編「賭博師」の妄執(「ゼロに賭けるんだ!」)を連想しますが、実際には賭博場は出て来ません。脅迫観念の作り出した代物なのです。催眠術犯罪を描いた「予言」には、見事に読者も幻惑されてしまいます。「白雪姫」は、氷河のクレヴァスに滑落した性悪妻の遺体発見を待ち続ける夫の話。反対に「復活祭」は、米国滞在時代の母の愛人に思いを寄せ続けた女性の話で、横浜港を舞台に一夜限りの逢瀬を描いています。これもまた妄執の果て…。でも、いずれも愛すべき妄執です。
  • 「銀の仮面」(ヒュー・ウォルポール著、倉阪鬼一郎編訳、創元推理文庫)
    その特異な人間観には、ルヴェルの短編集「夜鳥」と似た、残酷で皮肉な味わいがあります。但し、ウォルポールは紳士です。ルヴェル程に露悪的描写はしません。巻頭の表題作は(千街晶之の解説は、ヴィスコンティの『家族の肖像』との類似性を言っていますが)、むしろ、安部公房の戯曲「友達」の元ネタでは無いかと思われます。善意の老婦人が困窮の美青年に情けを施したばかりに、彼の俗悪な一族によって家財も生命も奪われる話です。嫌悪して遠ざけた男の死後に、我知らず「唯一の親友だった」と嘯いてしまう「敵」、理解者である唯一の友人を、人生の邪魔者として殺してしまう「みずうみ」等、憎しみと愛情とが歪に複合して、自分でも分からなくなってしまうのが彼の真骨頂です。愛着を抱くことは、何かに取り憑かれ支配されてしまうことに等しいのです。そんな中、巻末のクリスマス物語「奇術師」が一服の清涼剤と成っています。
posted by 行人坂教会 at 23:21 | 牧師の書斎から

幸せになろうよ【ルカ6:20〜26】

聖句「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」(6:20,21)

1.《お幸せに》 結婚式や披露宴の際に、新郎新婦に向かって「お幸せに」とお祝いの言葉を掛けたり、祝辞を申し述べたりします。「いつまでも仲良く、お幸せに」との意味でしょうが、結婚が幸せとイコールとは限りません。結婚情報誌の「ゼクシィ」が「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」と新婦が宣言するCM(2017年)を発表しました。結婚についての意識変化と共に幸福観の多様化を見る思いがしました。

2.《神の勝手》 イエスさまも「お幸せに」と仰っています。「貧しい人々は幸いなり」「飢えている人々は幸いなり」「泣いている人々は幸いなり」です。やがて運命の大逆転が起きて、飢えている者は満たされ、泣いている者は笑うようになるからです。「神の国、天の国」の「報い/ミストス」は「賃金、給料」という即物的な語ですが、そこから「葡萄園の労働者」の譬え話が思い出されます。資本主義や功利主義とは真逆の価値観で、主が一人一人に報いてくださるのです。何故かと問われれば、神が「自分のものを自分のしたいようにする」だけなのです。神は慈しみ深い御方なので、貧しい人たちを見過ごしに出来ないのです。

3.《神の招待》 「幸いである」に対応して「不幸である」があります。これは「災いなるかな」という呪詛です。「富んでいる人々」「満腹している人々」「笑っている人々」は「報酬」を前借してしまっているのです。未来の子孫を思わず、自らが便利さと快適さを享受するため資源を浪費し、負の遺産を残す現代社会の在り方を連想します。妖怪「アマビエ」は災いを警告する不吉な前兆でしたが、庶民の間で疫病除け、厄除けの守り神になりました。イエスさまの呪詛もまた、私たちが悔い改めることで、事前に災いを食い止め、私たちを正しい道へと導くためのものです。己の幸せのみ求めるのではなく、誰が一番に「神の国」へと招かれているか考えましょう。それが「天国への招待状」です。

朝日研一朗牧師

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2020年08月30日

霊魂の送り迎え

1.子守唄

「五木の子守唄」と言えば、熊本県球磨郡五木村が発祥とされています。その歌詞を覚えて居られるでしょうか。♪「おどま盆ぎり盆ぎり/盆から先ゃおらんど/盆が早よ来りゃ/早よもどる」。「おどま」は「私たちは」、「盆ぎり」は「盆限り」、「おらんど」は「いないよ」です。つまり、その歌詞は「私らは、お盆までという約束で、この家に子守奉公に来ているんだ。/お盆が過ぎたら、もういないよ。/お盆が早く来たら、早く家に帰れるのになあ」という意味です。

数多くの子守唄が作られた江戸時代、社会は安定期を迎えると共に、士農工商の身分制が確立しました。農村においても「地主と小作」という階級差(経済格差)が固定化して行きました。更には、身分制の中にも入れられずに「穢多非人(えたひにん)」と蔑まれ、謂われ無き差別を受けた「部落」の人たちの存在も忘れてはなりません。

明治期に入っても、相変わらず身分差別や貧困は続き、農村では「間引き」や「口減らし」が日常的に行なわれ続けました。子どもたちは7〜8歳にも成れば奉公に出されました。何と5歳で奉公に出されたという記録まであります。女の子は「守り子」をさせられました。5歳くらいの女の子が奉公先の赤子を背負って、日中歩いている姿が、かつては、この国の各地で見られたものです。

そうした「守り子」が呟くように、呻くように歌った恨み歌の1つ、それが「五木の子守唄」なのです。2番は「おどま勧進勧進/あん人達ゃよか衆/よか衆よか帯/よか着物」でした。ここに歌われる「勧進」は「乞食、貧民、非人」を意味します。自分の奉公先の人たちを「あの家の人たちは、綺麗な帯に立派な着物のお金持ちだ」と、自分の惨めな境遇と比較して揶揄しているのです。

2.盆義理

「五木の子守唄」の「盆ぎり盆ぎり」で、遠州・三河地方の「盆義理」なる習慣を思い出しました。要するに「初盆」なのですが、かの地では葬式そのものよりも盛大に行なわれるそうです。お盆の夕方に「初盆」を迎えるお宅に、親族、近所の人たちは勿論の事、会社の同僚たち、学校時代の旧友たちに至るまで、次々に訪ねて来て「御仏前/不祝儀袋」(相場は千〜3千円)をお供えして行くのだそうです。とにかく「浜松では葬儀は2回行なわれる」と言われる程だと聞きました。本当に「義理堅い」ことですが、「初盆をもって、葬祭の義理が終了する」の意味で「盆切り」でもあるという、興味深い考察もありました。

今年は新型コロナウイルス感染拡大防止の立場から、多くの人たちが「お盆の帰省」を自粛しました。お盆に帰省する義理も立たなくなってしまったのです。日本でお盆に親族が集う習慣があるのは、お盆に先祖、即ち、死者の霊魂(50年忌以前の未だ「祖霊」に成っていない「死霊」)が家に戻って来ると信じられているからです。それ故に、霊が迷わぬよう「迎え火」を焚いて迎え、「送り火」を焚いて送り出すのです。

「大文字焼き」で知られる京都の「五山送り火」も死霊を黄泉に送り帰す行事です。これは「山の送り火」ですが、「海の送り火」(海に送り帰す火)もあります。「燈籠流し」「精霊(しょうろう)流し」です。いずれにしても、死者の世界(黄泉、冥土)は山の彼方、海の彼方にあるという日本の古い観念です。

余談に成りますが、グレープ(さだまさし)のヒット曲「精霊流し」(1974年)の一節に♪「約束通りに あなたの愛した レコードも一緒に流しましょう」と歌われていて、その当時から、私は「塩化ビニールを川や海に流すなんて、酷い環境破壊だ」と思っていました。ところが、同じ歌の中に♪「線香花火が見えますか 空の上から」の歌詞もあって、死んだ人が「空の上から」見てくれていると言っているのです。死んだ人の霊がいるのは山なのか、海なのか、それとも空の上なのか…。とにかく「彼方」なのでしょう。お盆は仏教行事の体裁を採っていますが、その深層は土着の民間信仰です。それでは、現代の私たちは、先に逝った人たちは「どこにいる」と感じているのでしょうか。

3.盂蘭盆

最後に、京都市伏見区竹田に伝わる「竹田の子守唄」で終わりましょう。「赤い鳥」が1971年のシングル盤A面に入れて、ミリオンヒットを記録しながらも、被差別部落の労働歌だったとの謂われから、放送局が自主規制を掛けて、20年以上も放送禁止歌に成っていました。B面の「翼をください」が音楽の教科書に載り、人気合唱歌として歌われ続けていること(2009年の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』にも使われて、アニメファンにも人気)と、余りにも対照的ではありませんか。

♪「守りもいやがる/盆から先にゃ/雪もちらつくし/子も泣くし」「盆がきたとて/なにうれしかろ/帷子(かたびら)はなし/帯はなし」「この子よう泣く/守りをばいじる/守りも一日/やるせやら」「はよもゆきたや/この在所こえて/むこうに見えるは/親のうち」。この唄にも、毎日の暮らしの辛さ、遣る瀬無さが沁み込んでいます。

それにしても、ここでも再び「盆」が登場します。やはり、子守奉公の期間なのでしょう。「帷子」は「初夏から初秋にかけて着る、裏地の付いていない和服、単衣(ひとえ)」のことです。「綺麗な着物も帯も無いのに、盆が来たからと言って何が嬉しいか」と言いながらも、それでも「親のいる家に早く帰りたい」と歌っているのです。お盆になれば実家に帰れるのです。このように、死霊の送り迎えと、奉公人(現代なら労働者)の帰省とが重なっていることに、何とも知れない、不思議な符号を感じるのです。そう言えば、仏教用語の「盂蘭盆」は、古代イランのアヴェスター語「ウルヴァン/霊魂」が語源だとする説がありました。

牧師 朝日研一朗

【2020年9月の月報より】

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2020年08月25日

8月第5主日礼拝

       8月30日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”幸せになろうよ音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 6章20〜26節(p.112)
讃 美 歌  27、428、490、90、153、29
交読詩篇  詩編68編1〜11節(p.75)


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posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2020年08月24日

我々はどこにいるのか【創世記3:1〜13】

聖句「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」(3:8,9)

1.《方向音痴》 私は方向音痴です。自分が今どこにいるのかを見失い、分かれ道や曲がり角を間違えて、とんでもない所に行ってしまいます。カーナビが付いて以後も遠回りをしてしまいます。しかし『相棒』の水谷豊、歌手のGackt、野球のイチロー選手、「2時間ドラマの女王」片平なぎさ等の方向音痴ぶりも有名です。自分の立ち位置を見失うことは、人生の大きなテーマでもあります。

2.《悲憤梗概》 神さまはアダムに「あなたはどこに?」と尋ねられました。神さまが見失ったのではありません。アダムは神さまとの約束を破り、信頼を裏切ることで、関係が失われてしまったのです。刑事が犯罪者の隠れ家に踏み込もうとしているのではありません。アダムの隠れている所等、神は先刻御承知です。ヘブライ語の「どこに?/アイェーカー」は「哀歌」冒頭の「何故に?/ああ哀しいかな!/エーカー」と全く同じ4文字から成っています。主なる神は、アダムが丸裸にされて、所在無く隠れている姿、そんな哀れな人間の姿を見て「どうして、こんな事に…」と嘆いて居られるのです。

3.《永遠の命》 呼び掛けに応えて、アダムの方から姿を現わして欲しいという願いが込められているのです。アダムが食べてしまった「善悪の知識の木」とは「命の木」との対応から「死の木」ではないでしょうか。「秘密の知恵」は神の御もとにあるべきだと「申命記」は言います(29章28節)。「エデンの園」では、判断を下すのは神さまでした。しかし、人間が自分勝手に善悪の判断を下すようになってしまったのです。それは数多の死と災いをもたらしています。しかし、後戻りは出来ません。イエスさまは、神の愛の呼び掛けに「私はここにいます」と応えることの中に「永遠の命」に至る道があると示されました。

朝日研一朗牧師

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2020年08月23日

教会の外の掲示板

教会の外の掲示板の「言葉」が変わりました。

20200823掲示板
posted by 行人坂教会 at 15:40 | 教会アルバム

2020年08月18日

8月第4主日礼拝

       8月23日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”我々はどこにいるのか音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  創世記 3章1〜13節(p.3)
讃 美 歌  27、428、490、362、205、29
交読詩篇  詩編68編1〜11節(p.75)
※役員任職式

讃美歌練習(9月の月歌:139番)   礼拝後    礼拝堂

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posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2020年08月17日

英霊のお値段【イザヤ26:12〜19】

聖句「塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。/あなたの送られる露は光の露。/あなたは死霊の地にそれを降らせられます。」(26:19)

1.《花森安治》 NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』には「暮らしの手帖」の名物編集長、花森安治が登場しました。日本のコピーライターの草分けで、戦前は大政翼賛会の外郭団体で活躍しましたが、戦後は言い訳めいたことは発言せず、ひたすらに暮らしの中にある「気付き」を掘り起こして行きました。各人の暮らしを大切にすることが「平和への道」だと確信していたのです。

2.《靖国神社》 花森自身も徴兵されて満州に行きました。その時の経験を「見よぼくら一銭五厘の旗」という散文詩に綴っています。教育係の軍曹から「貴様らの代りは一千五厘で来る/軍馬はそうはいかんぞ」と怒鳴られたと言うのです。召集令状の郵便料金、今なら84円です。軍馬どころか「軍人勅諭」には「死は鴻毛(鵬の羽毛)よりも軽しと心得よ」と教えられています。青春を「一銭五厘」で消耗された若者たちの悔しさと怨みを覆い隠すために、国家が「鎮魂ショー」を行なう、それが靖国神社なのです。死して尚、国家は利用するのです。

3.《死霊復活》 この「イザヤ書」の預言は、祖国が外国の支配下に置かれている中で、ある信仰者がそれでも尚、神の支配を信じて、平和を求める祈りです。古代ユダヤ教では、死者は陰府に入って、虚ろな影のような存在に成ると考えられていました。米軍と戦った靖国の「英霊」もまた無力にされ、今や米国のお追従をする政治家たちに利用されるだけです。死して尚、愚弄され凌辱されているのです。しかし、神さまは「死霊」のように無力な存在とされている捕囚の民にも「光の露」を降らせて、再び命を与えてくださるのです。主なる神は、現代日本に生きる私たちにも「光の露」を送ってくださるはずです。

朝日研一朗牧師

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2020年08月11日

8月第3主日礼拝

       8月16日(日) 午前10時30分〜11時30分
平和メッセージ   ”英霊のお値段音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  イザヤ書 26章12〜19節(p.1099)
讃 美 歌  27、428、490、238、418、29
交読詩篇  詩編68編1〜11節(p.75)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2020年08月10日

エルサレムの石【ルカ19:37〜44】

聖句「イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。』」(19:41,42)

1.《難民と詩人》 パレスチナの女性詩人、ファドワ・トゥカンは「わが主よ/エルサレムが苦しみに喘いでいるのに/世界の沈黙はいや長く/太陽の眼が抉られたというのに/世界は石のように、それを見ようとしない」と歌いました。1948年、イスラエルの侵略によってパレスチナ難民が発生しました。しかし世界中が見て見ぬ振りをしたのです。

2.《スローガン》 シオニストは戦争を仕掛けて、住民を虐殺し追放して、土地を奪い取り「イスラエル建国」を宣言しました。「世界が石のように」沈黙して、パレスチナの悲劇を見ようとしない理由の1つに旧約聖書の存在があります。欧米人はパレスチナ地方に無関心な上、聖書の生半可な知識が災いして「エルサレムはユダヤの都」と反応してしまうのです。シオニストが「土地なき民に、民なき土地を」のキャンペーンを始めた時、パレスチナには誰も住んでいないと、欧米の教会は真に受けてしまったのです。しかし、そこには、2千年前からパレスチナ人が暮らしていたのです。

3.《平和への道》 イエスさまの「エルサレム入城」を迎えた弟子たちは「ホサナ」と叫んだと言われていますが、「ルカによる福音書」には「ホサナ」の代わりに「天には平和、/いと高きところには栄光」と、クリスマスの天使を思わせる賛美が歌われます。けれども、クリスマスは「地に平和」だったはずです。「エルサレム」の名も「平和」を意味する名前ですが、そこで主が十字架に磔にされて殺されるのです。「平和への道」は沈黙することでも、投石することでもありません。イエスさまの「涙」を胸に刻みつつ、人の暮らしを守るための「石」を積み上げることです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:54 | 毎週の講壇から