2020年09月29日

10月第1主日礼拝(世界聖餐日・世界宣教の日)

      10月 4日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”最初の晩餐音楽          朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 22章14〜23節(p.153)
讃 美 歌  27、144、490、76、436、89
交読詩篇  詩編139編1〜10節(p.156)

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2020年09月28日

わたしがいるから【ヨハネ8:21〜30】

聖句「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。」(8:29)

1.《汚れなき悪戯》 1955年のスペイン映画です。12人の修道士が捨て子にマルセリーノと名付けて育てます。しかし、5歳に成長した坊やは、年配男性ばかりの環境の中で、同じ年頃の遊び相手や母親を求めるようになります。ある日、悪戯坊やは屋根裏部屋に上り、十字架のキリスト像と出会います。痩せて空腹そうな姿を見た坊やが、パンを差し出すと、彫像はそれを受け取り、遂に十字架から降りて腰掛け、坊やとお喋りをするようになるのです。

2.《インマヌエル》 パンとワインを盗むマルセリーノの後を付けた修道士たちは、この奇跡を目の当たりにします。「お母さんに会いたい」と願う坊やは、キリストの膝に抱かれて、微笑みながら天国に旅立つのです。この映画には、聖書や教会の象徴や隠喩が一杯です。三人の博士と降誕、十二使徒、疑いのトマス、会堂長ヤイロと娘、「聖体拝領」の逆転、マルセリーノの名前の由来、カルタゴの聖マルケルリヌス等です。また、独り遊びをするマルセリーノが作り上げた架空の友だちの名前は「マヌエル」でした。それは「インマヌエル/神は我々と共に居られる」、イエスさまの真名です。キリストとの出会いを予告していたのです。

3.《きっと大丈夫》 イエスさまがファリサイ派に対して立てられた証もまた、「神は私と共に居られる」「私を独りぼっちにはなさらない」ということに尽きるのです。「わたしはある/エゴー・エイミ」は「出エジプト記」以来の神さまの本質を表わす名前です。しかし、その証を信じられないファリサイ派の人たちは「道を踏み外したまま死んでいく」(本田哲郎神父訳)のです。これは断罪や裁きの言葉ではなく、彼らの無理解に対する主の悲しみと怒りです。私たちも「去って行った」人たちを「捜し続けて」います。それが人生の切なさです。でも「インマヌエル」が居られるから、きっと大丈夫なのです。天国で会いましょう。

朝日研一朗牧師

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2020年09月27日

パンとワインと夢

1.主の食卓

10月第1主日は「世界聖餐日/World Communion Sunday」です。世界中の教会が十字架の主に結ばれて存在していることを確認するための記念日です。1936年に、米国の長老派教会が、10月最初の日曜日の礼拝で、聖餐式を執行したのが始まりとされています。ローマカトリック教会の「ミサ」や東方正教会の「奉神礼」では、日曜日毎に「聖体拝領」(正教会では「領聖」)が行なわれていて、それこそが礼拝の中心とされています。

ところが、多くのプロテスタント教会では、聖餐式は三大聖日(イースター、ペンテコステ、クリスマス)にしか行なわれていなかったのです。当時は、ペンテコステですら祝っていない教会が多数あった程です。それ故、同じ日に一致して、プロテスタント諸教会の信徒が聖餐に与ることに価値があるとされたのです。

特に1940年代になると、世界中に戦争の暗雲が立ち込めました。そんな中、世界中のキリスト者が共に「主の食卓」に就くことで一致し、お互いを認め合うことを願って、米国の超教派団体「連邦教会協議会/Federal Council of Churches/FCC」がこれを採用。その後身団体である米国「キリスト教協議会/National Council of Churches/NCC」によって引き継がれ、世界各国各地の「NCC」に拡がり、日本基督教団でも、1958年以降「世界聖餐日・世界宣教の日」として守られています。

2.聖餐中止

さて「コロナ禍」の中で「世界聖餐日」を、どのようにして記念したら良いでしょうか。そもそも、いつに成ったら、礼拝の中で聖餐に与ることが出来るのでしょうか。

今から十数年前に、「オープン聖餐」(未受洗でも希望する者の陪餐を認める)の是非を巡って、日本基督教団内部で批判が巻き起こり、教団執行部は未受洗者への陪餐を認める教師を免職処分にするという事件が起こりました。1969年「教団紛争」以来の黴の生えた怨恨が生み出した事件です。本来は信仰者の一致の象徴たるべき聖餐を、政争の道具として用いた結果、教団内部に大きな分裂をもたらしてしまいました。

現状はどうでしょう。主義主張は別として、殆どの教会が礼拝の中で聖餐式を執行できなくなり、中止しているのです。日本基督教団に限って言うなら、それは、あたかも神さまからの罰のように感じられます。「聖餐を重んじている!」と主張していた教会が、公同の礼拝で、聖餐に与ることが困難に成っているのです。

勿論、それでも聖餐を行なっている教会もあります。そのためにマンナンライフの「蒟蒻畑」を思わせるポーション(1人前小分け)カップに入ったグレープジュース(高価です)に、亀田製菓の「揚げ一番」のような小袋のお菓子を、パンの代用として使って居られるようです。実に涙ぐましい努力です。しかしながら、同じ場所で会衆が飲食することについては、危惧を感じない訳ではありません。

かと思えば「オンライン聖餐式」を行なっている教会もありました。各人がパンと葡萄酒(もしくは葡萄ジュース)を事前準備して、PCやタブレット端末の前に陣取り、一斉に聖餐に与るという手筈です。何と、この教会のHPには「種無しパンの作り方」と称するレシピまでが掲載されていました。しかし、オンライン等に無縁な「情報弱者」と言われる人たち(高齢者の多くが含まれます)は置き去りにされてしまいます。

3.主の血肉

聖餐のことを思い巡らして悶々としていたら、往年の名画『汚れなき悪戯』(1955年、スペイン)が思い出されました。原題は「Marcelino,Pan y Vino/マルセリーノとパンと葡萄酒」です。19世紀初め、フランス軍によって破壊されて廃墟となった修道院を再建しようとして、12人の修道士が働いていました。ある日の事、門前に赤ん坊が捨てられていました。修道士たちは、その子に「マルセリーノ」と名付け(丁度、その日がローマの殉教者マルチェリヌスの聖日だったから)、皆で育てるのです。

5歳に成ったマルセリーノは「ぼくのお母さんはどこにいるの?」と尋ねます。修道士は「神さまのもとにいる」と答えます。ある日、彼が「入るな」と禁じられていた屋根裏部屋に入ると、そこには十字架のキリスト像がありました。マルセリーノはキリスト像に話し掛けます。像は痩せていて、如何にも空腹そうに見えたので、厨房からパンを持って来て与えます。すると、像はそれを受け取ります。

やがて像は十字架から降りて来て、椅子に腰掛けます。彼が「私は誰か分かるか?」と尋ねると、マルセリーノは「神さまです」と答えます。こうして、マルセリーノは毎日、パンと葡萄酒を盗んでは、せっせと、キリスト像に運びます。キリスト像が「お前は良い子だから、願いを叶えて上げよう」と言うと、マルセリーノは迷わず「お母さんに会いたい」「あなたのお母さんにも」と答えます。

炊事係のトマス修道士は不審に思い、様子を伺っていたのですが、その目の前で、像はマルセリーノを膝に抱いて眠らせます。他の修道士たちも駈け付け、キリストが十字架に戻るのを目撃します。光輝く椅子の上で、マルセリーノは微笑みながら息絶えていました…。

「ヨハネによる福音書」のトマスは、外出していたために、復活のキリストに会いそびれて、最後まで信じられなかった使徒です。そのトマスと同じ名前の修道士が、最初に奇跡を目撃するのです。そして、マルチェリヌスは「ローマ典礼」の「聖体拝領の祈り」の中に、その名が挙げられる聖人です。

ズッと長い間、聖餐に与るのが当然、信徒なら与って当然と、私たちは思っていました。でも、当たり前の事なんか何一つ無かったのです。

牧師 朝日研一朗

【2020年10月の月報より】

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9月第4主日礼拝

       9月27日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”わたしがいるから” 音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 8章21〜30節(p.181)
讃 美 歌  27、139、490、157、563、88
交読詩篇  詩編98編1〜9節(p.111)

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2020年09月21日

お前も死ぬぞ【ルカ16:19〜31】

聖句「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。」(16:25)

1.《寺の掲示板》 2018年から「仏教伝道協会」主催の「お寺の掲示板大賞」が始まり、テレビで紹介されたり写真本が出版されたりして盛り上がっています。街角にトタン板で貼られている「聖書配布協力会」の脅迫的・排他的な裁きの言葉と比較すれば一目瞭然ですが、お寺の掲示板には、通行人が思わず足を止めて見つめるようなヒネリがあります。ヒネリとはユーモア、その語源「フーモル、ユーモル」から言うと「血の通った言葉、潤いのある言葉」です。

2.《格差の拡大》 「金持ちとラザロ」は落語の「長屋の花見」のような小噺です。有り余る財産を持って贅沢三昧に暮らしている金持ちと、その門前で物乞いをしながら、金持ちの家の「食卓から落ちる物(残飯、生ゴミ)で腹を満たしたいものだ」と思う程に貧しいラザロとが比較されています。ラザロは皮膚病を患い、野犬の餌になる寸前です。同じ時代に生まれ、同じ街で暮らし、恐らくは、同じ神を信じていたはずですが、2人の境遇は天国と地獄のように懸け離れていました。しかも、古代ユダヤ教信仰では「因果応報」の論理が罷り通っていたのでで、ラザロの貧困も「自己責任」として片付けられたはずです。

3.《神への祈り》 極貧の中で死んだラザロは天国へ連れて行かれ、信仰の父祖たる「アブラハムの懐の中、胸の中」、即ち祝宴の上席に招かれました。他方、金持ちはゲヘナ(地獄)と思しき場所で責め苛まれます。金持ちは悪人で、ラザロは善人だったとか、金持ちは不信仰で、ラザロは信心深かった等とは一言も書いてありません。それは、人間の側、特に宗教団体の運営者が信者をコントロールするために加える条件なのです。神さまは無条件です。ただ、憐れみたい者を憐れみ、恵みたい者を恵まれるのです。私たちが出来るのは、苦難の中で、神の救いと助けを求めて、必死に呼び求めることだけです。それこそが祈りです。

朝日研一朗牧師

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2020年09月15日

9月第3主日礼拝

       9月20日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”おまえも死ぬぞ音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 16章19〜31節(p.141)
讃 美 歌  27、139、490、7、478、88
交読詩篇  詩編98編1〜9節(p.111)

・讃美歌練習(10月の月歌:144番)  礼拝後    礼拝堂

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2020年09月14日

羊たちの沈黙【ルカ 15:1〜7】

聖句「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(15:7)

1.《つくも》 日本では「九十九」と書いて「つくも」と読ませます。「百(もも)に次ぐ」から「次ぐ百(もも)」、訛って「つくも」です。「つくもがみ」は「白髪」の意味です。「伊勢物語」でも「もゝとせに ひとゝせ足らぬ つくもがみ…」の歌が詠まれています。「百歳に1歳足りないような白髪の老婆が…」の意味です。古道具も長く放置していると「付喪神」という妖怪になり百鬼夜行をします。

2.《九十九》 「九十九」は「百」を前提にしています。イエスさまの譬え話では「百匹の羊」は百匹一財産、「十枚のドラクメ銀貨」も「番町皿屋敷」と同じく10枚1セットの箪笥預金です。「完全な価値」なのです。1つでも欠けたら価値が失われてしまうのです。聖数の「7」に1つ足りない「6」は不完全な数字、その三連荘の「666」は神に逆らう「獣の数字」とされています。「過ぎたるは及ばざるが如し」で、聖数「12」に1つ多い「13」も不吉な数字です。「放蕩息子」の譬え話でも、「息子は2人いるから兄弟の1人が失われても構わない」等ということは断じてありません。失われたら耐え難い苦しみ、それが親心というものです。

3.《喜ぶ友》 「1匹対99匹」の対立図式で読むべきではありません。それでは「トロリー問題」「ボート問題」のように、机上の道徳的ジレンマに陥ってしまいます。イエスさまは人間の判断や計算、道徳を言って居られるのではありません。神の摂理(御心は何か)について語って居られます。それは「天の喜び」です。神さまがそれを喜ばれるのです。しかし、私たちは「正しい人」である自分(九十九匹の羊、放蕩息子の兄)が置き去りにされているかのように感じるのです。他方、失われた羊を捜し求めて発見した人と「一緒に喜ぶ人たち」が登場します。呼び集められた「友だち、隣人」が共に喜び、祝宴に与るのです。妬んだり羨んだり、拗ねたり捻くれたりせず「神の友」として、一緒に喜びましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2020年09月08日

9月第2主日礼拝

       9月13日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”羊たちの沈黙” 音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 15章1〜7節(p.138)
讃 美 歌  27、139、490、4、469、88
交読詩篇  詩編98編1〜9節(p.111)

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2020年09月07日

背負うことが学ぶこと【マタイ11:25〜30】

聖句「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。…わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(11:28,29)

1.《休みたい》 「コロナ休業」等と言いますが、泣く泣く休業せざるを得なかった人たちが殆どで、生活不安の中にあって、心身の休養が出来た人など余りいなかったと思います。アリストテレスは「休み」を「パイディア/遊び」「アナパウシス/保養」「スコレー/学びの暇」の3つに分けました。イエスさまが「休ませてあげよう」「安らぎを得られる」と仰るのは「アナパウシス」です。

2.《疲れたよ》 休みの前提として労働があります。「疲れた者」は「打ち叩かれている者」の意です。現場監督から鞭や杖で打たれる、古代の奴隷労働を連想します。現代においても、職場での暴力やハラスメント、危険な現場の事故、ストレスや長時間労働による病気の発症、突然死など、働く者たちは多かれ少なかれ心身に鞭打たれていると言えるでしょう。「重荷を負う者」も荷役を思わせる語です。しかしながら、必ずしも「苦役」を意味する語ではありません。例えば、適度な船荷が船体を安定させるのと同じく、人もまた、自らが負う責任や任務を持つことで、自重し、成長して行くことが出来るのです。

3.《天に昇る》 イエスさまは「軛、荷から解放して上げよう」とは仰っていません。軛や荷を背負って行くのが人生だからです。首枷は農耕用の牛2頭を繋ぐ物でした。あなたと軛を共にするパートナーがいるのです。誰もいなくても、イエスさまが一緒です。そして私たちが運ぶべき荷物は愛なのです。人生という航海には、運ぶべき荷物が必要です。余り重荷になってはいけませんが、適度な荷物がなければ空っぽの人生です。「アナパウシス/休息」には「下から上へ」のベクトルがあります。7世紀の東方教会では、母マリアの永眠の日を「アナパウシス」「アナレープシス/上へと取れ去られる」(被昇天)と言いました。本当の意味で、私たちが「労苦を解かれて、安らぎを得る」のは天に召される時です。

朝日研一朗牧師

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2020年09月01日

9月第1主日礼拝

       9月 6日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”背負うことが学ぶこと音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 11章25〜30節(p.20)
讃 美 歌  27、139、490、116、502、88
交読詩篇  詩編98編1〜9節(p.111)

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