説 教 ”最初の晩餐”

聖 書 ルカによる福音書 22章14〜23節(p.153)
讃 美 歌 27、144、490、76、436、89
交読詩篇 詩編139編1〜10節(p.156)
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |
標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。」(8:29)
1.《汚れなき悪戯》 1955年のスペイン映画です。12人の修道士が捨て子にマルセリーノと名付けて育てます。しかし、5歳に成長した坊やは、年配男性ばかりの環境の中で、同じ年頃の遊び相手や母親を求めるようになります。ある日、悪戯坊やは屋根裏部屋に上り、十字架のキリスト像と出会います。痩せて空腹そうな姿を見た坊やが、パンを差し出すと、彫像はそれを受け取り、遂に十字架から降りて腰掛け、坊やとお喋りをするようになるのです。
2.《インマヌエル》 パンとワインを盗むマルセリーノの後を付けた修道士たちは、この奇跡を目の当たりにします。「お母さんに会いたい」と願う坊やは、キリストの膝に抱かれて、微笑みながら天国に旅立つのです。この映画には、聖書や教会の象徴や隠喩が一杯です。三人の博士と降誕、十二使徒、疑いのトマス、会堂長ヤイロと娘、「聖体拝領」の逆転、マルセリーノの名前の由来、カルタゴの聖マルケルリヌス等です。また、独り遊びをするマルセリーノが作り上げた架空の友だちの名前は「マヌエル」でした。それは「インマヌエル/神は我々と共に居られる」、イエスさまの真名です。キリストとの出会いを予告していたのです。
3.《きっと大丈夫》 イエスさまがファリサイ派に対して立てられた証もまた、「神は私と共に居られる」「私を独りぼっちにはなさらない」ということに尽きるのです。「わたしはある/エゴー・エイミ」は「出エジプト記」以来の神さまの本質を表わす名前です。しかし、その証を信じられないファリサイ派の人たちは「道を踏み外したまま死んでいく」(本田哲郎神父訳)のです。これは断罪や裁きの言葉ではなく、彼らの無理解に対する主の悲しみと怒りです。私たちも「去って行った」人たちを「捜し続けて」います。それが人生の切なさです。でも「インマヌエル」が居られるから、きっと大丈夫なのです。天国で会いましょう。
朝日研一朗牧師
聖句「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。」(16:25)
1.《寺の掲示板》 2018年から「仏教伝道協会」主催の「お寺の掲示板大賞」が始まり、テレビで紹介されたり写真本が出版されたりして盛り上がっています。街角にトタン板で貼られている「聖書配布協力会」の脅迫的・排他的な裁きの言葉と比較すれば一目瞭然ですが、お寺の掲示板には、通行人が思わず足を止めて見つめるようなヒネリがあります。ヒネリとはユーモア、その語源「フーモル、ユーモル」から言うと「血の通った言葉、潤いのある言葉」です。
2.《格差の拡大》 「金持ちとラザロ」は落語の「長屋の花見」のような小噺です。有り余る財産を持って贅沢三昧に暮らしている金持ちと、その門前で物乞いをしながら、金持ちの家の「食卓から落ちる物(残飯、生ゴミ)で腹を満たしたいものだ」と思う程に貧しいラザロとが比較されています。ラザロは皮膚病を患い、野犬の餌になる寸前です。同じ時代に生まれ、同じ街で暮らし、恐らくは、同じ神を信じていたはずですが、2人の境遇は天国と地獄のように懸け離れていました。しかも、古代ユダヤ教信仰では「因果応報」の論理が罷り通っていたのでで、ラザロの貧困も「自己責任」として片付けられたはずです。
3.《神への祈り》 極貧の中で死んだラザロは天国へ連れて行かれ、信仰の父祖たる「アブラハムの懐の中、胸の中」、即ち祝宴の上席に招かれました。他方、金持ちはゲヘナ(地獄)と思しき場所で責め苛まれます。金持ちは悪人で、ラザロは善人だったとか、金持ちは不信仰で、ラザロは信心深かった等とは一言も書いてありません。それは、人間の側、特に宗教団体の運営者が信者をコントロールするために加える条件なのです。神さまは無条件です。ただ、憐れみたい者を憐れみ、恵みたい者を恵まれるのです。私たちが出来るのは、苦難の中で、神の救いと助けを求めて、必死に呼び求めることだけです。それこそが祈りです。
朝日研一朗牧師
聖句「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(15:7)
1.《つくも》 日本では「九十九」と書いて「つくも」と読ませます。「百(もも)に次ぐ」から「次ぐ百(もも)」、訛って「つくも」です。「つくもがみ」は「白髪」の意味です。「伊勢物語」でも「もゝとせに ひとゝせ足らぬ つくもがみ…」の歌が詠まれています。「百歳に1歳足りないような白髪の老婆が…」の意味です。古道具も長く放置していると「付喪神」という妖怪になり百鬼夜行をします。
2.《九十九》 「九十九」は「百」を前提にしています。イエスさまの譬え話では「百匹の羊」は百匹一財産、「十枚のドラクメ銀貨」も「番町皿屋敷」と同じく10枚1セットの箪笥預金です。「完全な価値」なのです。1つでも欠けたら価値が失われてしまうのです。聖数の「7」に1つ足りない「6」は不完全な数字、その三連荘の「666」は神に逆らう「獣の数字」とされています。「過ぎたるは及ばざるが如し」で、聖数「12」に1つ多い「13」も不吉な数字です。「放蕩息子」の譬え話でも、「息子は2人いるから兄弟の1人が失われても構わない」等ということは断じてありません。失われたら耐え難い苦しみ、それが親心というものです。
3.《喜ぶ友》 「1匹対99匹」の対立図式で読むべきではありません。それでは「トロリー問題」「ボート問題」のように、机上の道徳的ジレンマに陥ってしまいます。イエスさまは人間の判断や計算、道徳を言って居られるのではありません。神の摂理(御心は何か)について語って居られます。それは「天の喜び」です。神さまがそれを喜ばれるのです。しかし、私たちは「正しい人」である自分(九十九匹の羊、放蕩息子の兄)が置き去りにされているかのように感じるのです。他方、失われた羊を捜し求めて発見した人と「一緒に喜ぶ人たち」が登場します。呼び集められた「友だち、隣人」が共に喜び、祝宴に与るのです。妬んだり羨んだり、拗ねたり捻くれたりせず「神の友」として、一緒に喜びましょう。
朝日研一朗牧師
聖句「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。…わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(11:28,29)
1.《休みたい》 「コロナ休業」等と言いますが、泣く泣く休業せざるを得なかった人たちが殆どで、生活不安の中にあって、心身の休養が出来た人など余りいなかったと思います。アリストテレスは「休み」を「パイディア/遊び」「アナパウシス/保養」「スコレー/学びの暇」の3つに分けました。イエスさまが「休ませてあげよう」「安らぎを得られる」と仰るのは「アナパウシス」です。
2.《疲れたよ》 休みの前提として労働があります。「疲れた者」は「打ち叩かれている者」の意です。現場監督から鞭や杖で打たれる、古代の奴隷労働を連想します。現代においても、職場での暴力やハラスメント、危険な現場の事故、ストレスや長時間労働による病気の発症、突然死など、働く者たちは多かれ少なかれ心身に鞭打たれていると言えるでしょう。「重荷を負う者」も荷役を思わせる語です。しかしながら、必ずしも「苦役」を意味する語ではありません。例えば、適度な船荷が船体を安定させるのと同じく、人もまた、自らが負う責任や任務を持つことで、自重し、成長して行くことが出来るのです。
3.《天に昇る》 イエスさまは「軛、荷から解放して上げよう」とは仰っていません。軛や荷を背負って行くのが人生だからです。首枷は農耕用の牛2頭を繋ぐ物でした。あなたと軛を共にするパートナーがいるのです。誰もいなくても、イエスさまが一緒です。そして私たちが運ぶべき荷物は愛なのです。人生という航海には、運ぶべき荷物が必要です。余り重荷になってはいけませんが、適度な荷物がなければ空っぽの人生です。「アナパウシス/休息」には「下から上へ」のベクトルがあります。7世紀の東方教会では、母マリアの永眠の日を「アナパウシス」「アナレープシス/上へと取れ去られる」(被昇天)と言いました。本当の意味で、私たちが「労苦を解かれて、安らぎを得る」のは天に召される時です。
朝日研一朗牧師