2020年09月07日

背負うことが学ぶこと【マタイ11:25〜30】

聖句「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。…わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(11:28,29)

1.《休みたい》 「コロナ休業」等と言いますが、泣く泣く休業せざるを得なかった人たちが殆どで、生活不安の中にあって、心身の休養が出来た人など余りいなかったと思います。アリストテレスは「休み」を「パイディア/遊び」「アナパウシス/保養」「スコレー/学びの暇」の3つに分けました。イエスさまが「休ませてあげよう」「安らぎを得られる」と仰るのは「アナパウシス」です。

2.《疲れたよ》 休みの前提として労働があります。「疲れた者」は「打ち叩かれている者」の意です。現場監督から鞭や杖で打たれる、古代の奴隷労働を連想します。現代においても、職場での暴力やハラスメント、危険な現場の事故、ストレスや長時間労働による病気の発症、突然死など、働く者たちは多かれ少なかれ心身に鞭打たれていると言えるでしょう。「重荷を負う者」も荷役を思わせる語です。しかしながら、必ずしも「苦役」を意味する語ではありません。例えば、適度な船荷が船体を安定させるのと同じく、人もまた、自らが負う責任や任務を持つことで、自重し、成長して行くことが出来るのです。

3.《天に昇る》 イエスさまは「軛、荷から解放して上げよう」とは仰っていません。軛や荷を背負って行くのが人生だからです。首枷は農耕用の牛2頭を繋ぐ物でした。あなたと軛を共にするパートナーがいるのです。誰もいなくても、イエスさまが一緒です。そして私たちが運ぶべき荷物は愛なのです。人生という航海には、運ぶべき荷物が必要です。余り重荷になってはいけませんが、適度な荷物がなければ空っぽの人生です。「アナパウシス/休息」には「下から上へ」のベクトルがあります。7世紀の東方教会では、母マリアの永眠の日を「アナパウシス」「アナレープシス/上へと取れ去られる」(被昇天)と言いました。本当の意味で、私たちが「労苦を解かれて、安らぎを得る」のは天に召される時です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:55 | 毎週の講壇から