聖句「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。」(8:29)
1.《汚れなき悪戯》 1955年のスペイン映画です。12人の修道士が捨て子にマルセリーノと名付けて育てます。しかし、5歳に成長した坊やは、年配男性ばかりの環境の中で、同じ年頃の遊び相手や母親を求めるようになります。ある日、悪戯坊やは屋根裏部屋に上り、十字架のキリスト像と出会います。痩せて空腹そうな姿を見た坊やが、パンを差し出すと、彫像はそれを受け取り、遂に十字架から降りて腰掛け、坊やとお喋りをするようになるのです。
2.《インマヌエル》 パンとワインを盗むマルセリーノの後を付けた修道士たちは、この奇跡を目の当たりにします。「お母さんに会いたい」と願う坊やは、キリストの膝に抱かれて、微笑みながら天国に旅立つのです。この映画には、聖書や教会の象徴や隠喩が一杯です。三人の博士と降誕、十二使徒、疑いのトマス、会堂長ヤイロと娘、「聖体拝領」の逆転、マルセリーノの名前の由来、カルタゴの聖マルケルリヌス等です。また、独り遊びをするマルセリーノが作り上げた架空の友だちの名前は「マヌエル」でした。それは「インマヌエル/神は我々と共に居られる」、イエスさまの真名です。キリストとの出会いを予告していたのです。
3.《きっと大丈夫》 イエスさまがファリサイ派に対して立てられた証もまた、「神は私と共に居られる」「私を独りぼっちにはなさらない」ということに尽きるのです。「わたしはある/エゴー・エイミ」は「出エジプト記」以来の神さまの本質を表わす名前です。しかし、その証を信じられないファリサイ派の人たちは「道を踏み外したまま死んでいく」(本田哲郎神父訳)のです。これは断罪や裁きの言葉ではなく、彼らの無理解に対する主の悲しみと怒りです。私たちも「去って行った」人たちを「捜し続けて」います。それが人生の切なさです。でも「インマヌエル」が居られるから、きっと大丈夫なのです。天国で会いましょう。
朝日研一朗牧師