説 教 ”涙は希望に生まれ変わる”

聖 書 ヨハネによる福音書 11章28〜37節(p.189)
讃 美 歌 27、384、490、316、379、385、24
交読詩篇 詩編105編1〜11節(p.119)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」(9:50)
1.《ライバル》 往年の戦争映画『眼下の敵』や『好敵手』では、敵軍の将校が互いに虚々実々の駆け引きや知恵比べをします。敵の戦術の見事さに舌を巻いたり、攻撃を見事にかわしたりする内に、相手への敵意が敬意へと変わって行くのです。但し、英語の「ライバル」はラテン語の「リーウス/小川」、つまり、水利権を巡る争いから派生した語です。本来「ライバル」には、日本語に言う「好敵手/好ましい競争相手」という意味合いは無いのです。
2.《主の名前》 イエス一行にとってもライバルの如き存在があったようです。弟子のヨハネは、イエスさまの名前を使って悪霊祓いをしていた者に、使用を禁じたと言います。まるで登録商標、商号の不正使用、専売特許の侵害を告発しているかのようです。しかし、主は「やめさせるな」と仰るのです。なぜなら、イエスさまの行き先は十字架です。誰からも理解されぬ不名誉な死でしたが、万民の救いを目指しています。奇跡や癒しや悪霊祓いは余技に過ぎません。私たちは、世間の評判や評価、名誉や名声、人望や人気ばかりに囚われています。私たちが「信仰の証しのために」と善行に励むのも自意識の裏返しだったりするのです。
3.《同じ方向》 洗礼者ヨハネの所にも「イエスが勝手に洗礼を授けている」とご注進にやって来る人がいました(ヨハネによる福音書3章22節〜)。その時、洗礼者は「私は嬉しい」と答えました。他にも、アスクレピオス教団やテュアナのアポロニオス等、イエスさまと同時代に、地中海世界を遊行しながら、病を癒したり悪霊を祓ったりする個人や団体があったのです。イエスさまは「私たちと一緒に従わなくても」「逆らわない者は味方だ」と言われるのです。原典には「敵/味方」という名詞はありません。「あなたがたと逆に向かう」「あなたがたの方に向かう」という方向性の違いだけです。たとえ信者にならなくても、イエスさまが見詰めて居られたのと同じ方向、主が胸裂かれる思いで見詰められた人々の悲しみや苦しみを見ている、それだけで良いのではないでしょうか。
朝日研一朗牧師
1.鬼滅の刃
テレビアニメ『鬼滅の刃』を観ています。吾峠呼世晴(ごとうげこよはる)が「週刊少年ジャンプ」に連載していたマンガ(2016〜2020年)のアニメ化です。2019年にアニメ化、テレビ放送されたのをキッカケに、予想を超える大人気となりました。その波紋は、十代二十代男子に留まらず、数多くの女子の熱烈な支持を得るに至り、今や、その親世代にも拡がっています。そして今月(2020年10月)、映画『劇場版 鬼滅の刃/無限列車編』が公開されました。未だ「コロナ禍」にありますが、今年最大級の興行収益を上げるだろうことは予想に難くありません。
マンガ雑誌の売り上げが低迷を続ける中、「ジャンプ」としては、久々の大ヒット鉱脈を堀り当てた訳ですが、ブームが拡大して行く中、作品は逸早く完結、雑誌連載は終了(2020年5月)しています。それを惜しむ声も聞かれますが、むしろ私としては、その潔さに大いに感動しています。
2.K暗奇幻
御存知ない方のために、お話の触りを御紹介します。時代設定は大正、主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)は、その名前の通り(笑)、亡き父を跡を継ぎ、炭焼きを生業とする少年です。ある日、山の炭焼きから戻ってみると、彼の家族は鬼によって惨殺されています。唯一の生存者である妹、禰豆子(ねずこ)も哀れ、鬼と化していました。
「鬼化」した妹を治したい一心の炭治郎は、「鬼殺隊」の「柱」(最高位の剣士)の一人、冨岡義勇(とみおかぎゆう)の紹介を受け、鱗滝左近次(うろこだきさこんじ)という老人を訪れます。元「柱」で今は「育て」として剣士候補生を育成している、鱗滝の下で厳しい修行を積んだ炭治郎は、最終関門の選別試験を突破、「鬼殺隊」に入隊します。
炭治郎は、身体を縮小した禰豆子を木製の箱笈に入れて(鬼は日光を浴びると死滅する)背負い、各地で人間を食べている鬼を討伐して行くのです。目指すは、千年以上も生きていると言われる鬼の始祖、鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)。炭治郎の一家を殺し、禰豆子を鬼に変えた張本人です。戦いの中で、炭治郎は選抜試験の同期生、我妻善逸(あがつまぜんいつ)、嘴平伊之助(はしびらいのすけ)、栗花落(つゆり)カナヲ、不死川玄弥(しなずがわげんや)といった個性的な剣士たちと邂逅し、友情を育んで行くのでした…。
「週刊少年ジャンプ」の創刊以来の三大原則「友情・努力・勝利」が見事に織り込まれています。主人公が家族や仲間に寄せる真っ直ぐで熱すぎる思いは、尾田栄一郎の『ONE PIECE』を、日本刀を使って戦うのは、和月伸宏の『るろうに剣心/明治剣客浪漫譚』を、老師の修行で戦士として育てられ、強大な敵と戦う毎に成長するのは、鳥山明の『ドラゴンボール』を、命を賭した選抜試験や剣士たちが「呼吸法」から繰り出す必殺技は、冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』を、鬼たちの使う「血鬼術」は、岸本斉史の『NARUTO−ナルト−』を連想させます。つまり「ジャンプ」歴代の大ヒット作の遺伝子を受け継いだ、所謂「王道マンガ」なのです。
但し、先行する諸作に比べて、明らかに異なっているのは、日本の歴史と文化に深く影を落とす「鬼」という存在に踏み入っている点です。つまり『鬼滅の刃』は「ダーク・ファンタジー」なのです。中国語に言う「K暗奇幻(ヘイアンチーホワン)」です。「ダーク・ファンタジー」の三大要素は「残酷・絶望・悲惨」です。その三大要素は前述の『るろ剣』や『HUNTER』や『ナルト』の底流にもあるのですが、「鬼」という伝統的観念に流れる情念の故か、表看板の「友情・努力・勝利」とのコントラストを弥が上にも際立たせているのです。
3.慈悲の剣
謡曲で知られる「羅城門の鬼」を例に挙げましょう。源頼光(みなもとのよりみつ)の「四天王」の一人、渡辺綱(わたなべのつな)が九条通の「羅城門」に出掛けて行って、鬼の片腕を切り落とします。『平家物語』では、設定を「一条戻橋」に変えて居り、この鬼が綱の乳母に化けて、腕を取り返しに来るのです。
この物語に材を採った新藤兼人監督の映画『藪の中の黒猫』(1968年)では、切り落とされた腕を取り返しに来る妖怪(鬼)を、実の母と妻に設定変更しています。源頼光家臣の名前も「銀時」に変えてあります(四天王の一人、坂田金時のパロディ)。銀時が頼光の下で戦に励んでいる間に、彼の母と妻は野武士の襲撃に遭い、無残にもレイプされた上に家ごと焼き殺されて、妖怪に変わり果てていたのです。
『鬼滅の刃』に登場する鬼たちもまた「昔は人間だった」というのが、作品の中心メッセージに成っています。「人間を食う鬼に情けをかける必要はない」と言い切る剣士たちの中にあって、独り炭治郎だけが「鬼は人間だったんだから」「俺と同じ人間だったんだから」と言い、崩れ去っていく鬼を慈悲の眼差しで見送るのです。その刹那、鬼の方でも人間だった頃の記憶が走馬灯のように蘇ります。鬼と化した原因は、彼らが現世で味わった「残酷・絶望・悲惨」だったのです。
私は「ミセリコルデ/Misericorde」という剣を思い出しました。ラテン語の「慈悲心、共感/ミセリコルディア/misericordia」から来た語です。瀕死の重傷を負った騎士に、とどめの一撃を突き刺すため短剣です。十字架の形をしていて、先端は尖っていますが、両側に刃は付いていません。騎士の鎖帷子や鎧の隙間に入れて刺すのです。ドイツでは「シュティレット/Stilett/三稜(さんりょう)の短剣」と言います。日本の「小脇差」に当たります。
「ミセリコルディア」は、この世の「不幸、苦難、悲惨/miseria/ミセリア」から目を逸らさず、見据える所から生まれるのです。
牧師 朝日研一朗
【2020年11月の月報より】
聖句「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(6:26)
1.《光の子に》 目黒通りを祐天寺方向に入った所で生まれ、油面小学校に通っていましたが、小学校4年生に父の郷里、下妻市に疎開しました。翌年には終戦。戦後は、兄に誘われてフレンド派の教会の日曜学校に通いました。新制中学の1年生で洗礼を受けましたが、その時には、本当に「光の子」になったような気持ちがしたものです。翌年、母の実家のある日本橋人形町に戻り、両親はパン屋を始め、私も配達を手伝い、「パン屋のみどりちゃん」と呼ばれていました。
2.《神の招き》 人形町時代にもバプテスト派の宣教師夫妻の伝道所に通っていました。けれども、4人きょうだいの3番目に生まれた私は、親から疎んじられているように感じて、僻みっぽくなっていたように思います。今思えば、親の愛に気付かないままの可愛げない私でした。縁あって重村光一と結婚して、行人坂教会にも通うようになりましたが、礼拝に導かれる中で、讃美歌517番「『われに来よ』と主は今/やさしく呼びたもう」の歌声に、心が染み入って涙が止まらなくなりました。3年近く子どもに恵まれない中、「跡取りが出来ない」と気を揉む重村家の舅姑から、声を荒げて庇ってくれた夫のことも忘れ難いものがあります。
3.《小鳥たち》 長男が1歳になった頃、重村の父が天に召され、夫が会社を継ぎました。しかし組合運動やオイルショックが重なり、会社は倒産してしまいました。跡取り息子の家に嫁ぎ、実家の親戚から羨ましがられていたが、その財産も消えて無くなり、子どもの貯金も取り崩して社員の給金に当てる始末でした。けれども正直、スッキリしました。幼年時代に口ずさんだ「ことりたちは小さくても」の讃美歌や聖句が私や夫を力づけてくれました。幸い、夫も教会の友人のお世話で再就職先が見付かり、私自身も保育士として働き始めました。以来40年余り、施設長や職員たちにも大切にされました。今でも、その保育園の園児と職員に関わり、年齢相応の仕事に携わっています。信仰の薄い私にも、常に神さまは愛を注いでくださり、導かれて今日があることを感謝しています。
重村みどり
聖句「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(5:39)
1.《聖書に拳銃》 1968年の西部劇『5枚のカード』の主人公は偽牧師です。縛り首にされた弟の復讐のために町にやって来て、下手人を殺害して行くのですが、それを阻止しようとする男と対決する場面で、聖書の中から小型拳銃を取り出します。ヴェネチア国立考古学博物館には、大型聖書の中身を刳り抜いて、フリントロック式の古い拳銃を納めた物(17世紀後半の作)が展示されています。実際、聖書の中には拳銃や剣、爆弾や核兵器が入っているように思います。
2.《関係の成長》 旧約聖書には、異民族や異教徒は皆殺し、掟破りも殺す、戦争の敵は「聖絶」するという観念があります。選民だけが救われて、他は滅びるという考えもあります。しかし、現代のキリスト者である私たちは、そんなことはしませんし、そんな考えを認めていません。それらは全て、新約聖書の信仰によって乗り越えられた掟です。旧約の神は「怒りの神」、新約の神は「愛の神」と言われますが、怒ってばかりでもありません。慈しみ深く、民の裏切りに涙を流す神も描かれています。つまり、人間関係と同じく、神と人との関係も、時代状況や文化変容を通して成長して行っているのです。そして主がお生まれになったのです。
3.《信仰の解放》 ここで「聖書」と訳されているのは旧約聖書のことですが、単なる「グラファイ/書物」という皮肉もあります。近代プロテスタントもまた「聖書研究」を重んじて来ましたが、これがネックになって入信を妨げたり、信徒に対しても「不勉強」を指弾して劣等感を植え付ける一因になっています。反対にカルトや熱狂主義教会は、聖書の文言を信者の脳にインプリントして支配します。しかし、イエスさまは「幾ら巻物の中を捜しても、永遠の命に出会うことはない」と仰るのです。主は今日の現実の中に立たれています。新約聖書はキリストを証しする文書ですからさて置き、旧約聖書を読む場合には、私たちの現実、主の生きられた時代の現実、2つを見据えた上で批判的に読みましょう。
朝日研一朗牧師
聖句「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」(22:21)
1.《最後の晩餐》 レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画が有名です。ミラノの修道院の食堂に描かれたテンペラ画です。あの横一列の長テーブルの構図が斬新だったせいでしょう。現代まで映画やマンガで繰り返しパロディにされています。銭湯の富士山のように、修道院の食堂には「最後の晩餐」を描く習いでした。横一列の長テーブルは15世紀に登場します。しかし、裏切り者ユダだけは背を向けていたり、光輪(聖人の象徴)が無かったり黒かったりしたのです。
2.《晩餐コード》 小説『ダ・ヴィンチ・コード』の「コード」は「暗号」ですが、聖画にも「コード/規準」は付きものです。裏切りのユダは黒髪で銀貨の袋を握っています。ペトロは怒った顔で短刀を握っています。トマスは「裏切り者は誰ですか?」「1人ですか?」と主に尋ねています。ヨハネはイエスさまやペトロに凭(もた)れ掛かっています。貧者ラザロが「アブラハムの懐に」招かれたと言われるのと同じく、彼が主の「愛弟子」で「宴会の上席」に着かせて貰ったことが表現されています。福音書の誤読から、裸で逃げた若者と同一視された彼は、レオナルドの絵では「モナリザ」「マグダラのマリア」のように描かれています。
3.《裏切り御免》 聖書の時代には、宴会の客は簡易ベッドに横臥して食事をしていました。時代や地域と共に、聖書の描写も変わります。「最後の晩餐」を「最初の晩餐/聖餐」として受け止める、教会にとっては、主の御言葉が大切です。端的に言えば「私を思い出せ」「約束だよ」の2つです。そして、その席に裏切る者さえもが招かれていたという驚くべき事実です。「裏切る」には「後に残す、棄てる」の意味もあります。主を置き去りにして逃げた使徒だけではありません。信仰者としての務めを放棄したり、信仰を棄てることもある私たちもまた、それでも主は招いてくださるのです。そんな主の御心に救われているのです。
朝日研一朗牧師