2020年11月30日

誰も知らない【マルコ13:32〜36】

聖句「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。気をつけて、目を覚ましていなさい。」(13:32,33)

1.《アドベント》 クリスマスを前にして、アドベントの期間があることは、世間では知られていません。しかし、私たちが「イヴ当日」と思っている12月24日も、アドベントの最後の1日に過ぎません。12月25日はクリスマスで、主日と同じ祭日ですが、24日は特別な日ではありません。日没により日付が変更される聖書の習慣に従っているので、日没後に行なわれるイヴ礼拝は、正真正銘のクリスマス礼拝と見なされています。日没前ではダメなのです(笑)。

2.《いつなのか》 日本では、アドベントを「待降節」と訳しました。主を待ち望む私たちの姿勢としては結構ですが、アドベントの本質ではありません。ラテン語の「テンプス・アドウェントゥス」は「到来、接近の時」です。「主が来られる」ことです。「テンプス」はギリシア語の「カイロス/その時」です。聖書では「終わりの日、救いの時」です。神のお膝元、天にいる天使たちも、イエス御自身さえも知らされてはいないと言うのです。私たちに分からないのも当然です。知る必要のないこと、知るべきではないことなのです。小説や映画のオチは勿論、私たちの人生も信仰も、何も知らされていないから面白いと言えるでしょう。

3.《生きていく》 「誰も知らない」「あなたがたには分からない」と言われるものの、旧約聖書の中にメシア(救い主)の到来は何と350回も予告されているそうです。でも、クリスマスの夜、ベツレヘムの町は何も知らず眠っていました。そこで終わりの時、私たちが慌てることのないよう、新約聖書には、キリスト再臨の預言が300回もあるようです。その時がいつなのか、私たちには分かりませんが、その時のための心構えを、イエスさまは教えて下さっています。「気をつけている」ことは、この世の動きや社会の問題から目を逸らさず、この時代に向き合っていくことです。「目を覚ましている」は、他の人たちへの愛と思い遣りを失わずに暮らしていくことです。37節で締めに言われる「目を覚ましている」は「生長する」ことです。「与えられた人生を思う存分に生きなさい」「芽を出し、茎を伸ばし、枝を張って生長しなさい」と、主は仰っているのです。

朝日研一朗牧師

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2020年11月29日

黄金の子牛を求めて

1.内なる悪

11月に入ってから、盛んに「新型コロナウイルスのワクチン開発の成功」というニュースが飛び交っています。

米国製薬大手の「ファイザー/Pfizer」とドイツのバイオテクノロジー企業「ビオンテック(もしくはバイオエヌテック)/BioNTech」が共同開発しているワクチンでは、治験の結果、90%以上の有効性が得られたと言います。それに続いて、米国の新興バイオテクノロジー企業「モデルナ/Moderna」も同様の発表をしました。更に、英国の製薬大手「アストラゼネカ/AstraZeneca」がオックスフォード大学と共同開発したワクチンも重症化を防ぐという臨床試験データを発表しました。

その発表の度に、株価が上昇するのを見ていると、ワクチン開発競争も人命を救うためと言うよりは金儲けのためという経済の基本原理を、つくづく思わされます。そもそも「バイオテクノロジー企業」と言えば、私など、ゲームや映画の『バイオハザード/Bio Hazard』に登場する「アンブレラ社」を思い出す訳です。

「バイオハザード」とは、細菌やウイルス等の有害物質が、研究室や病院から外部に漏れることで引き起こされる「生物災害」を意味します。『バイオハザード』では、アンブレラ社の研究施設で開発中のウイルス兵器「T-ウイルス」が施設内で漏れて、「バイオハザード」が発生、感染者たちは「アンデッド/ゾンビ」と変わり果て、特殊部隊の隊員たちに襲い掛かって来るのです。「バイオハザード」下の「サバイバル」がテーマです。

『バイオハザード』は、1996年に日本のゲーム会社「カプコン/CAPCOM」がクリエートした「PlayStation/プレステ」用のゲームソフト、及び、その実写映画化ですが、海外でのタイトルは「Resident Evil/内在する悪」でした。「生物災害」も単なる事故ではなく、企業側が仕組んだ実験であり、特殊部隊の派遣も、災害の収束を期してのものではなく、生物化学兵器の実戦データを得るためのものだったという展開です。

2.ワクチン

勿論「バイテク企業」と聞くだけで「バイオハザード」を連想してしまうのは、私の極端に歪んだ精神が作り上げた妄想に過ぎません。更に聖書の知識を加えて、妄想を加速するのが、キリスト教の牧師のヤバイところです。

「ワクチン」の語源は、ラテン語の「vaccīna/ウァッキーナ」です。「種痘疹、牛痘疹」という意味です。皆さんの右腕には「種痘」の傷跡がありますか。1976年(昭和51年)までは、天然痘の予防接種は義務化されていました。やがて、天然痘の国内発症が無くなり、1975年(昭和50年)以後に生まれた人には、種痘の跡はありません。もう1つは、結核の予防接種ワクチン「BCG」です。こちらは左右どちらでも「上腕」なら良かったみたいで、右の人も左の人もいます。

天然痘の予防接種を行なった功績者と言えば、18世紀英国の医師にして科学者のエドワード・ジェンナーです。彼はウイルスに感染した雌牛から「牛痘」を取り出して、人間に接種したところが、ウイルスに対する免疫を獲得できたという話です。それで、これが「ワクシニア・ウイルス/Vaccinia virus」と呼ばれるように成りました。「ワクチン」という語の始まりです。ラテン語の「雌牛/vacca/ウァッカ」が起源なのです。

「雌牛は我々に乳を、鶏は卵を与える/vaccae nōbīs lāc, gallīnae ōvā praebent」というラテン語の成句がありますが、雌牛は乳のみならず、天然痘のワクチンも与えてくれたのです。そう言えば、インフルエンザのワクチンも鶏の卵を使って培養されていますね。

3.物質主義

「彼らは早くも我が彼等に命ぜし道を離れ、己(おのれ)のために犢(こうし)を鑄(い)なしてそれを拝み、其(それ)に犠牲(いけにへ)を獻(ささ)げて言ふ、イスラエルよ是(これ)は汝をエジプトの地より導きのぼりし汝の神なりと」(「出エジプト記」32章8節/文語訳)という聖句を思い出します(句点は、読み易いように私が入れました)。

有名な「黄金の子牛/Golden calf」の場面です。モーセがシナイ山で、主なる神から律法を受け取っている間に、その山麓に宿営するイスラエルの民は不安の余り、エジプト人から「行き掛けの駄賃」とばかり頂戴した金を鋳造して、偶像を作り出し、「これがエジプトから脱出させてくれた神様だあ」と言って拝んだという話です。

ヘブライ語の「ラーヘム」、即ち「己(おのれ)のために」(「日本聖書協会訳」は「自分のために」、「新改訳」は「自分たちのために」)という所が、偶像礼拝の本質を暴露しています(残念ながら「新共同訳」も「協会共同訳」も抜けています)。

アロンとイスラエルの民が拝んだ「黄金の子牛」は、エジプト神話の天空の太母神「ハトホル/Hathor」が起源と思われます。彼女は「天界の雌牛」として崇拝され、その乳房から天の川が生まれ、毎日、太陽を生んでいると信じられていました。細長い雌牛の角を生やし、その両角の中に赤い太陽の円盤を載せた姿で描かれています。

ワクチン開発が成功し、待ち望む人たちに供給され、ウイルスの感染を防ぎ、罹患者の重症化を防ぐとしたら、素晴らしいことです。しかし、それは何のためでしょうか。またしても、以前と同じような大量生産大量消費の世界に、何の反省もなく戻って、「黄金の子牛」に仕えるだけのためだとしたら、それは余りにも虚しいことのように思うのです。

旧約聖書(古典ヘブライ語)では「黄金の子牛」は「エゲレー・ザーハーブ」と表現されていますが、現代ヘブライ語で「黄金の子牛/エーゲル・ハ・ザーハーブ」と言ったら「金銭崇拝、物質主義」を意味します。

牧師 朝日研一朗

【2020年12月の月報より】

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2020年11月27日

クリスマス・リース

アドベント(待降節)から翌年の公現日まで飾ります。

20201127クリスマス・リース
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2020年11月24日

11月第5主日礼拝(アドベント第1主日)

      11月29日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”誰も知らない音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 13章32〜37節(p.90)
讃 美 歌  27、384、229、230、24
交読詩篇  詩編105編1〜11節(p.119)

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2020年11月23日

涙と共に種まく人は…【詩編126:5〜6】

聖句「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。/種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/…喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(126:5,6)

1.《これが種》 皆さんは「種」と言うと、どんな物を思い浮かべるでしょうか。スイカの種、リンゴの種、柿の種など果物の種は大きな存在感があります。けれども、バナナは品種改良の結果、「種無しバナナ」が当たり前になっています。トマトやキュウリも、種があっても意識できない程に小さくなっています。私たちが種の存在に気付くのは、食べる時に邪魔になるからです。実際には、種があるのに、種があると余り意識することのない果物や野菜が数多くあるのです。

2.《これも種》 私たちが食べているトウモロコシの粒は種なのです。豆腐も揚げも、味噌も醤油も、大豆という種から出来ています。おにぎりや日本酒の原料である米も、パンやうどんやスパゲティやビールの原料である麦も、同じです。米や麦の穂に入っているのは「種」に他なりません。蕎麦もソバの種から出来ています。私たちは、穀物の種を頂いているのです。私たちが「実り」と言っている物は、本当は「種」だったのです。考えてみると、不思議な気持ちになります。植物が繁殖のために作っている種を、私たちは食べている。私たちの中に、その種は取り入れられて、そこから私たちは生きる力を頂いているのです。

3.《涙こそ種》 エジプトのピラミッド、ファラオの墓の中から5千年前の小麦の粒が発見されました。それを地面に蒔いて育てたら、驚いたことに発芽したというのです。その種は5千年も芽生える時を待っていたのです。聖書もまた、色々な種の入った袋のようなものです。御言葉の種です。受け入れ準備の出来た豊かな心の中に蒔かれるまで、何十年も何百年も種の形のままです。私も若い頃は、聖書など死んで干乾びた言葉と思っていましたが、石のようになって死んでいたのは、私の心の方でした。私たちの人生は種蒔きのような仕事です。種の入った麻袋を背負って、泣きながら自分のフィールドに出て行きます。楽しいことばかりではありません。むしろ、辛いことや苦しいことの方が多いのです。けれども、あなたが流す涙は、必ず神さまが受け取ってくださいます。それが正しい涙なら、いつか、その涙に代えて、喜びの歌を与えてくださることでしょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2020年11月22日

2020年行人坂教会クリスマス諸行事のご案内

2020年「行人坂教会 クリスマス諸行事のご案内」のパンフレットです。

クリスマス関連の諸行事のご案内2020


行人坂教会 クリスマス諸行事のご案内

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クリスマスの幽霊

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posted by 行人坂教会 at 17:33 | 教会からのお知らせ

2020年11月17日

11月第4主日礼拝(収穫感謝日、謝恩日)

      11月22日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”涙と共に種まく人は…音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  詩編 126編5〜6節(p.971)
讃 美 歌  27、62、384、17、こどもさんびか101、24
交読詩篇  詩編105編1〜11節(p.119)

・・・当日の音声録音を聴く
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2020年11月16日

母さん、もう泣かないで【ルカ7:11〜17】

聖句「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」(7:13)

1.《ナオミの心》 私が最初に赴任した大阪の某教会には、専業主婦と職業婦人の婦人会がありました。「職業婦人」と言えば、何か華々しく思われるかも知れませんが、終戦後の独身女性、離婚経験者、早くに連れ合いと死別した女性たちで構成されていました。「結婚が女性の幸せ」との風潮が残っていて、彼女たち自身も、何となく肩身の狭い思いをされていたのです。やがて若手女性が加わりましたが、先輩たちの思いを受け継いで、会の名前を「ナオミ」と変更されたのです。

2.《寡婦の悲嘆》 「ナオミ」は「私の喜び」という意味ですが、「ルツ記」の物語の故に寡婦を象徴する名前になりました。ヘブライ語の「寡婦」はアラビア語の「痛みを感じる」という語との関連が指摘されています。ギリシア語は「奪われて孤独である」の意味です。ナインの町の門から葬列が出ようとしていました。寡婦の女性が先導して、担架には彼女の独り息子の遺体が載せられています。夫に先立たれたばかりか、独り息子にまで先立たれたのです。息子は二十歳前後、あるいはハイティーンだったかも知れません。町の門に入ろうとして、その葬列に遭遇したイエスさまは「五臓六腑(スプランクノン)を震わせる」程に、この母親の悲しみに共鳴されました。それこそがキリストの「憐れみ」です。

3.《生死の交錯》 ここに興味深いコントラストがあります。葬列は町の外に出ようとしていて、イエスさま一行は町の中に入ろうとしていたのです。「出る」と「入る」は町の城門の出入り、旅立ちと帰りですが、同時に私たちの誕生と死を意味しています(詩編121編8節)。私たちの生と死とが交錯する所に、主は立たれるのです。命の主イエスが死者の葬列を押し留め、若者を復活させた福音と読むことも出来ます。しかし、現実はもう少し複雑です。主に蘇らせて貰った若者も再び死んだのです。信仰者であっても死は恐ろしいし、愛する者を失えば絶望して生きる意欲も失うのです。しかし、そんな不信仰な私たちの所に、キリストの方から訪ねて下さるのです。たとえ、私たちの人生が死に向かう歩みであるとしても、復活の命を湛えた主、イエスさまが訪ねて来て下さるのです。

朝日研一朗牧師

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2020年11月10日

11月第3主日礼拝

      11月15日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”母さん、もう泣かないで音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 7章11〜17節(p.115)
讃 美 歌  27、384、490、457、462、24
交読詩篇  詩編105編1〜11節(p.119)

讃美歌練習(12月の月歌:177番)   礼拝後    礼拝堂

・・・当日の音声録音を聴く
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2020年11月09日

聞く耳のある者は聞きなさい【マルコ4:1〜12】

聖句「そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。」(4:9)

1.《惨い仕打ち》 息子の車椅子を押して雑踏を行く時、「すみません。車椅子が通ります」等と訴えていましたが、彼は「車椅子ユーザー」ですが、「車椅子」等ではありません。「物」ではなくて、一人の人間なのです。介助者でありながら、本人の頭越しに、私たちに体調などを尋ねる人もいて、「本人に尋ねてください」と注意したこともあります。私たちは無考えに、当事者の人格と尊厳を無視する行為を繰り返しますが、本人の存在を否定する残酷な仕打ちなのです。

2.《言葉と意識》 障碍があることによって、本人の意思や主体性が奪われる、これが最大の差別です。けれども、私たちの言葉を変えることで、私たちの意識も変わります。その点「車椅子ユーザー」という語は、当人の主体性を取り戻す表現です。聖書の中で身体障碍者は「足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人」(マタイによる福音書15章30節)と書かれています。以前の日本語訳の「差別語」は言い換えられて一掃されましたが、それで差別が無くなる訳ではありません。しかし少なくとも、当事者が耳にしても不快と思われない程度にソフトに成りました。それだけでも一歩前進です。

3.《聴くべき耳》 ギリシア語で見ても、身体障碍を表わす語は「出来ない」「無い」を意味します。その本質は「弱さ、無力/アステネイア」です。しかし、この「弱さ」こそが、新約聖書の信仰の到達点だったことを思い出しましょう。パウロの「私は弱さを誇る」「神の恵みは弱さの中でこそ発揮される」「私は弱い時にこそ強い」です。「出来る事、出来る人」を評価するのが、この世の価値観です。それと真っ向から対立します。けれども今や、人間の能力主義と功利主義が数多くの不幸と悲劇をもたらしています。むしろ、弱い者、愛と配慮を必要とする者の存在によって辛うじて世界は滅亡せずに保たれているのです。弱い立場に置かれた人たちは「静かに細い声」、「種粒」のように小さくて目立ちません。私たちには、その種を受け取って、大きく育てる責任があるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 23:12 | 毎週の礼拝案内