2020年11月09日

聞く耳のある者は聞きなさい【マルコ4:1〜12】

聖句「そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。」(4:9)

1.《惨い仕打ち》 息子の車椅子を押して雑踏を行く時、「すみません。車椅子が通ります」等と訴えていましたが、彼は「車椅子ユーザー」ですが、「車椅子」等ではありません。「物」ではなくて、一人の人間なのです。介助者でありながら、本人の頭越しに、私たちに体調などを尋ねる人もいて、「本人に尋ねてください」と注意したこともあります。私たちは無考えに、当事者の人格と尊厳を無視する行為を繰り返しますが、本人の存在を否定する残酷な仕打ちなのです。

2.《言葉と意識》 障碍があることによって、本人の意思や主体性が奪われる、これが最大の差別です。けれども、私たちの言葉を変えることで、私たちの意識も変わります。その点「車椅子ユーザー」という語は、当人の主体性を取り戻す表現です。聖書の中で身体障碍者は「足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人」(マタイによる福音書15章30節)と書かれています。以前の日本語訳の「差別語」は言い換えられて一掃されましたが、それで差別が無くなる訳ではありません。しかし少なくとも、当事者が耳にしても不快と思われない程度にソフトに成りました。それだけでも一歩前進です。

3.《聴くべき耳》 ギリシア語で見ても、身体障碍を表わす語は「出来ない」「無い」を意味します。その本質は「弱さ、無力/アステネイア」です。しかし、この「弱さ」こそが、新約聖書の信仰の到達点だったことを思い出しましょう。パウロの「私は弱さを誇る」「神の恵みは弱さの中でこそ発揮される」「私は弱い時にこそ強い」です。「出来る事、出来る人」を評価するのが、この世の価値観です。それと真っ向から対立します。けれども今や、人間の能力主義と功利主義が数多くの不幸と悲劇をもたらしています。むしろ、弱い者、愛と配慮を必要とする者の存在によって辛うじて世界は滅亡せずに保たれているのです。弱い立場に置かれた人たちは「静かに細い声」、「種粒」のように小さくて目立ちません。私たちには、その種を受け取って、大きく育てる責任があるのです。

朝日研一朗牧師

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