1.ツェッペリン
もう長い年月、久しく忘れていた、一つの光景と音色が蘇って来ました。
障碍のある次男が京都の大学に進学し、その支援のために妻も京都に行ったことが契機となり、母教会のメンバーと約30年ぶりに連絡を取り合うようになったのです。
学生時代に通っていた母教会では、礼拝が終わると、毎週「ポトラック/Potluk」(持ち寄りの食事会)が行なわれていました。貧乏学生の私たちは、専ら食べる係でした。いや、それは幾ら何でも言い過ぎ。食事の後片付け(テーブルや椅子の収納と皿洗い)を担当していました。しかしながら、牧師から「お前、日頃ろくなもん食ってないんだから、もっと食べろ」等と勧められるまま、それを真に受けていたのは事実です。片付けが終了すると、庭に出てタバコを吸ったり、皆で次の会報の相談をしたり、お喋りをしながら、のんびりと日曜日の午後を過ごしていたものです。
そんな傍らで、Y君はアコースティックギターを爪弾いていました。礼拝の奏楽のために彼が持ち込んだギターでしたが、今思えば、下宿で練習するよりも、心置きなく弾けたからかも知れません。練習していたのは、どれもブリティッシュ・ロックの曲でした。その定番の練習曲の1つが、1970年代英国のロックバンド、レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)の「天国への階段/Stairway to Heaven」(1971年)でした。勿論、彼が弾くのは、ギターソロのイントロ部分だけだったのですが、私も大スキな曲だったので、彼がそれを弾き始めた時だけは、思わず、うっとりと耳を傾けていたものです。
因みに、当時、文学部国文学科に在籍していて「作家になりたい」と言っていた、そのY君も牧師になり、今は岩手県の教会にいます。
2.メイクイーン
急に思い出したのは、主の「昇天日/Ascension Day」のことを考えていたからでもあります。イースター(復活日)から40日目の木曜日が「昇天日」です。「使徒信条」に「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり」とあるように、このキリスト昇天こそが復活の御業の完成とされています。実は「偲ぶ会」(昨年、コロナ禍のために延期された)を5月に開催することにしたのも、この「昇天日」に因んでのことです。
そこで、ツェッペリンの「天国への階段」を聴き直してみると、歌詞の中に「生垣の中からざわめきが聞こえても驚かなくていい/それはメイクイーンを迎えるための掃除なのだから」という一節があったりして、益々、啓示のように感じてしまったのでした。「メイクイーン/May queen」は文字通り「五月の女王」です。「五月祭」の際に、白いドレスを着て、花の冠を被って踊る少女のことです。勿論、ジャガイモの「メークイーン」という品種も英国発祥で、「五月の女王」から採られたものです。
大学時代の先輩(これまた国文科)Mは、福岡女学院で国語の教師をしています。彼から女学院では、毎年5月18日の創立記念日には「メイポール・ダンス」が行なわれると聞いてビックリしたことがあります。「メイポール/五月柱」と呼ばれる、飾り付けをした柱の周りで、夏服(当然、白い)に衣替えした女学院の生徒たち(中学2年生)が、柱に結ばれた紅白のリボンを持って、大群舞を繰り広げるのです。ポールの高さは3.5メートル、リボンは12本です。学年全員が参加するのですから、校庭にポールは何本も立てられるのでしょう。1916年から行なわれているそうです。「それで、ジャガイモの女王を選ぶんよね」と言われて、思わず「それって、メークイーンじゃん!」と応えたのを思い出します。
福岡女学院はセーラー服の発祥校としても知られていますが、創立者は、米国メソジスト監督教会の宣教師、ジェニー・ギール(Jenny Gheer)です。厳格なメソジスト系の学校で、キリスト教以前に遡る習俗が行なわれているのは奇異に思われます。しかし、そこにも歴史の変転があるのです。英国本土では、イースターやペンテコステ(聖霊降臨日)にも「メイポール・ダンス」が行なわれていたのですが、ピューリタン(清教徒)の批判を浴びて一旦は廃れました。それが、19世紀末に民謡収集家のセシル・シャープ(Cecil Sharp)のフィールドワークにより発掘、再評価され、学校教育に導入されるに至ったそうです(讃美歌104番「愛する二人に」(The Water Is Wide)が歌えるのも、この人の御蔭です)。
3.グリッターズ
さて、ツェッペリンの「天国への階段」は、こんな歌詞で始まります。「輝くもの全て黄金なりと信じる婦人がいる。/彼女は天国へと続く階段を買おうとしている。/そこに辿り着きさえすれば/たとえ商店が全て閉まっていても/それが一言で手に入れられると思っている。/ああ、彼女は天国への階段を買うつもりなのだ」。
作詞・作曲は、ジミー・ペイジ(Jimmy Page)とロバート・プラント(Robert Plant)の共作ということに成っています。ペイジの静かなアコースティック・ギター・ソロ、プラントの呟きか呻きのような歌声で始まり、最後にはハードなシャウトに達して、また静かに終息して行きます。演奏時間8分にも及ぶ大曲です。
実は、冒頭の「輝くもの全て黄金なり」と思い込んでいる女性の妄執は「輝くもの全てが黄金に非ず/All that glitters is not gold」(「輝くものが全て黄金であるとは限らない」)という言葉のモジリなのです。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』の中で、ポーシャに求婚したモロッコの大公が、彼女に渡した黄金の宝石箱の中に入っていた紙切れの警句、それが「輝くもの全てが金に非ず」だったのです。
今の世の中は「光輝くもの/グリッターズ」に満ち溢れています。しかし、私たちにとって、本当に「輝いているもの」とは何でしょうか。
牧師 朝日研一朗
【2021年5月の月報より】
posted by 行人坂教会 at 06:00
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