聖句「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(4:19,20)
1.《信仰への入門》 プロテスタント教会には「教理問答/カテキズム」の伝統があります。洗礼志願者、堅信礼志願者に「信仰告白」に準じて教育し、自らの信仰について弁証できるようにしたのです。それに倣って、カトリック教会も「公教要理」を作りました。しかし、私は教理の「詰め込み」に意味を感じません。それで「キリスト教入門講座」の中では、受講者と一緒に、信仰者は如何に生きるのか、暮らしの中に信仰生活を如何に位置付けるかを考えるようにしています。
2.《イエスの弟子》 その「入門講座」の受講者から「これで私も先生の弟子になりますね」と言われて驚いたことがあります。私にも洗礼を授けてくれた牧師はいますが、「彼の弟子」と意識したことは無かったからです。漢字の「弟子」(「弟」の文字は矛の柄に巻く鞣革)は「次の人」の意味、ラテン語の「ディスキプルス」は「学ぶ、経験する」から、ギリシア語の「マテーテース」は「習得する、聞いて理解する」から、ヘブライ語の「リンムーディーム」は「馴れる」から来ています。因みに、ヘブライ語の「師/モーレハ」は「投げる、指し示す」から来ています。これこそ、イエスさまです。主は私たちに「模範解答」など求めて居られません。いつも何かを「投げ掛け」、新しい気付きを与えて下さるのです。
3.《最前線の矢面》 小見出しは「4人の漁師を弟子にする」ですが、本文に「弟子」という語はありません。「従う、付いて行く」が「弟子になる」という意味ではあります。「教理問答」を習得したから弟子と認められた訳ではありません。イエスさまの召し(人選)は、むしろ、神の国の門が全ての人に開かれていることを示すものです。なぜペトロたちがイエスさまの召しに従ったのか不思議です。しかし、聖書は人を操るための魔法の本ではありません。「あなたならどうする?」と問い掛ける本なのです。主は「私に付いて来なさい」(直訳は「さあ、私の後ろに」)と仰っただけです。戦争では、属国(占領地)の兵士を最前線に立たせるのが常です。服従させ「弾除けの楯」「鉄砲玉」にするのです。しかし、信仰の闘いでは、矢面に立つのはイエスさま、後ろに続く私たちを守って下さるのです。
朝日研一朗牧師