2021年04月26日

さあ、わたしの後ろに【マタイ4:18〜22】

聖句「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(4:19,20)

1.《信仰への入門》 プロテスタント教会には「教理問答/カテキズム」の伝統があります。洗礼志願者、堅信礼志願者に「信仰告白」に準じて教育し、自らの信仰について弁証できるようにしたのです。それに倣って、カトリック教会も「公教要理」を作りました。しかし、私は教理の「詰め込み」に意味を感じません。それで「キリスト教入門講座」の中では、受講者と一緒に、信仰者は如何に生きるのか、暮らしの中に信仰生活を如何に位置付けるかを考えるようにしています。

2.《イエスの弟子》 その「入門講座」の受講者から「これで私も先生の弟子になりますね」と言われて驚いたことがあります。私にも洗礼を授けてくれた牧師はいますが、「彼の弟子」と意識したことは無かったからです。漢字の「弟子」(「弟」の文字は矛の柄に巻く鞣革)は「次の人」の意味、ラテン語の「ディスキプルス」は「学ぶ、経験する」から、ギリシア語の「マテーテース」は「習得する、聞いて理解する」から、ヘブライ語の「リンムーディーム」は「馴れる」から来ています。因みに、ヘブライ語の「師/モーレハ」は「投げる、指し示す」から来ています。これこそ、イエスさまです。主は私たちに「模範解答」など求めて居られません。いつも何かを「投げ掛け」、新しい気付きを与えて下さるのです。

3.《最前線の矢面》 小見出しは「4人の漁師を弟子にする」ですが、本文に「弟子」という語はありません。「従う、付いて行く」が「弟子になる」という意味ではあります。「教理問答」を習得したから弟子と認められた訳ではありません。イエスさまの召し(人選)は、むしろ、神の国の門が全ての人に開かれていることを示すものです。なぜペトロたちがイエスさまの召しに従ったのか不思議です。しかし、聖書は人を操るための魔法の本ではありません。「あなたならどうする?」と問い掛ける本なのです。主は「私に付いて来なさい」(直訳は「さあ、私の後ろに」)と仰っただけです。戦争では、属国(占領地)の兵士を最前線に立たせるのが常です。服従させ「弾除けの楯」「鉄砲玉」にするのです。しかし、信仰の闘いでは、矢面に立つのはイエスさま、後ろに続く私たちを守って下さるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:56 | 毎週の講壇から

2021年04月25日

教会の庭の苺が一個だけ赤くなりました。 子どもたちが分けて食べました。 礼拝が再開される頃にはもっと実っていることでしょう。

20210425教会の庭の苺

トマトも植えました。 楽しみが増えました。

posted by 行人坂教会 at 20:05 | こどもの教会「あんず」

2021年04月23日

4月第4主日礼拝(労働聖日/働く人の日)

       4月25日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”さあ、わたしの後ろに” 音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 4章18〜22節(p.5)
讃 美 歌  27、320、490、370、516、88
交読詩篇  詩編66編1〜9節(p.73)

・讃美歌練習(5月の月歌:557番)  礼拝後    礼拝堂
・定期教会総会     午後0時30分〜3時     礼拝堂

  ・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 20:00 | 毎週の礼拝案内

2021年04月19日

何のために生きるのか【ローマ 14:1〜12】

聖句「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」(14:10)

1.《驚く為五郎》 その昔、ハナ肇の「アッと驚く為五郎」というギャグがありました。そもそも、ハナが麻雀をしている時、自分の打牌によって他家にロンしてアガられた瞬間に唸っていた口癖だったそうです。元ネタは浪曲「清水次郎長伝」の「為五郎の悪事」の一節、本座村為五郎の驚愕を、名人と言われた二代目広沢虎造が独特の節回しを効かせて唸った(歌った)ものだったのです。

2.《恩を着せる》 ここには「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために生きるのです」という有名な聖句があり、その前後も含めると僅か2節に7回も「ために」が出て来ます。こんなに連発されたら、さぞかし主も鬱陶しかろうと思いました。愛国心に付け込んで「お国のため」と言っては、兵隊を死地に追いやった歴史があります。親が子どもに「あなたのためなのよ!」と捲くし立てる場合も、大抵、本人のためには成りません。殆ど全ての日本語訳で「主のため」になっていますが、実際には、単に「主に」(定冠詞+与格の名詞)に過ぎないのです。英訳なら「to the Lord」です。人間が神さまに恩を着せよう等とは言語道断、以ての外ではありませんか。

3.《主に生きる》 イエスさまは高い所から下々を見下ろして居られたのではなく、実際に地上に生きて、人間として苦難を受け、十字架に死なれました。そのような御方だからこそ、生きている者にとっても死んだ者にとっても、主であられるのです。その主が「私は誰をも裁かない」と仰っているのに、どうして信徒を自称する者が他人を裁くのでしょうか。主は「ファリサイ派と徴税人」の喩え話をして、他人を見下してはいけないと教えられたのに、どうして同胞を蔑んだり侮ったりするのでしょうか。「裁く」ことは「侮る」ことと同じです。残念ながら、社会は勿論のこと、教会の中にさえ、他者を自分より低い者と見下す人がいます。しかし、私たちがキリストを主と仰ぐなら、同胞と同じ目線で生きて行く道を選ぶべきです。その時にこそ、自分が生きる価値と目的とが知らされるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2021年04月13日

4月第3主日礼拝

       4月18日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”何のために生きるのか音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ローマの信徒への手紙 14章1〜12節(p.293)
讃 美 歌  27、320、490、196、518、88
交読詩篇  詩編66編1〜9節(p.73)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2021年04月12日

イエスの顔も三度【ヨハネ 21:1〜14】

聖句「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現われたのは、これでもう三度目である。」(21:14)

1.《魂の暗証番号》 最近は、年配者が若い人に説教する姿が見られなくなりました。昔の人は叱るにしても、諺や格言を織り交ぜていました。その人の人生観や職業倫理を裏打ちするものだったのでしょう。愛誦聖句も同じです。朝な夕なに唱えて自分を律する聖句は、私たちの魂の一部になります。クレジットカードの暗証番号みたいなものです。愛誦聖句を忘れるようでは、天国の扉は開きません。

2.《見ずに信じる》 「仏の顔も三度」の由来は、コーサラ国の毘瑠璃王(ヴィドゥーダバ)の軍勢が母の祖国、釈迦族を攻めた時、釈尊が教え諭して戦を押し留めるのですが、遂に4度目に釈迦族を滅ぼしてしまう故事です。「仏の顔」は釈迦の威光ですが、3度までしか効かなかったようです。聖書の「神の御顔」も神の栄光と臨在を意味します。私たち人間が見ることは出来ません。ただ仰ぐのです。イエスさまの復活の御姿も「見る」ものではありません。「ヨハネによる福音書」20章では、マグダラのマリアから始まり「見る」という動詞が繰り返されますが、「見ないうちは信じない」トマスに対して、主は「見ないで信じる者になりなさい」と言われて、復活は見るものではなく信じるものだと解き明かされるのです。

3.《毎日の朝御飯》 21章は後日譚です。最近の映画やアニメはエンディングのクレジットの後に付け足しのドラマが続いたりします。これを映画業界では「ポスト・クレジット・シーン」と言います。派遣命令が出された後に、どうして弟子たちが漁師なんかやっているのでしょうか。それは、私たちの日常生活の中に復活の主が居られるというメッセージです。夜通し働いた弟子たちのために朝御飯を用意して待っているイエスさまは、私たちの家族、学生食堂のおばちゃんのようです。聖礼典だの秘蹟だのと勿体ぶったものではありません。もはや「見たの見ないの」と喧嘩する弟子は一人もいません。イエスさまがそこに居られるのが当たり前なので、誰も「あなたは誰か?」と問うたりしないのです。だって「これでももう3度目」なのですから。私たちの暮らしの中に主は居られるのです。 

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:54 | 毎週の講壇から

2021年04月06日

4月第2主日礼拝

      4月11日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”イエスの顔も三度音楽       朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 21章1〜14節(p.211)
讃 美 歌  27、320、490、553、326、88
交読詩篇  詩編66編1〜9節(p.73)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2021年04月05日

どこかで朝が始まっている【マタイ 28:1〜10】

聖句「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」(28:8)

1.《朝のリレー》 谷川俊太郎に「朝のリレー」という詩があります。初出は1968年の詩集ですが、1980年代に中学の国語の教科書に掲載され、2004年にはコーヒー会社のCMにも使用されて、多くの人に知られるようになりました。世界の各地に暮らす若者や子どもたちが時間差で朝を迎える様子が、地球上の人から人へと「朝がリレー」されていると表現されています。

2.《何を繋ぐか》 東京五輪の聖火リレーが始まりましたが、正直、コロナ禍とあって素直に祝福できません。聖火リレーの起源は古代ギリシアの「松明競争」と言われます。競技会の前に騎手や走者が松明を消さないように注意しながら、神殿までリレーする宗教儀礼でした。近代リレーの発祥は、米国の大学が大陸横断の「駅馬車」や「早馬」の制度をヒントにして、バトンを手渡すトラック競技を始めたとされています。米国の消防士の消防訓練競技で手旗をリレーしたという説もあります。日本の「駅伝」では「襷を繋ぐ」と言います。駅から駅へ馬を乗り換える「伝馬」制度を利用する役人が、朝廷から支給された「駅鈴」が襷の起源とも言われます。しかし、目に見えない何かを繋ぐリレーもあるのです。

3.《希望の朝だ》 最初に主の復活を伝えられたのは「マグダラのマリアともう一人のマリア」でした。「もう一人のマリア」とは「小ヤコブとヨセの母マリア」です。息子2人を主の弟子として送り出し、自らもガリラヤから従って来て、一行の世話をしていた女性です。十字架の最期を見届け、朝一番に墓参りにも来ています。彼女たちは、そこで転がる墓石、天使の啓示、逃亡する番兵、主の復活という出来事に出会うのです。福音を弟子たちに伝えるために、彼女たちは走ります。聖書の中で女性が走る場面は珍しいと思います。伝え聞いたペトロも墓に走ります。さながら「箱根駅伝」の往路と復路のようです。この2人の女性たちから、復活を伝える「朝のリレー」が始まり、2千年後の私たちの所に届きました。今日に至るまで、途絶える事無く続けられているのです。それが主日礼拝です。 

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2021年04月04日

イースター

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イースター礼拝の後、みなさんで記念写真を撮りました。撮る瞬間だけマスクを外しました。

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posted by 行人坂教会 at 15:07 | 教会アルバム