2021年07月12日

今夜、取り上げられる命なら【ルカ12:13〜21】

聖句「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」(12:20)

1.《エッセンシャル》 コロナウイルスの感染爆発が始まって、私たちは沢山の耳慣れぬ用語を知ることになりました。その中に「エッセンシャル・ワーク」(社会インフラのために必要不可欠な職業)がありました。医療介護、教育保育、食品や必需品の生産・流通・販売、防犯治安、交通、公益インフラ等です。これらの職種が「必要不可欠」なのは理解できますが、それが強調され過ぎると、「不要不急」と烙印を押される職種も出て来ます。お酒を出す店、芸術芸能、そして私たち教会も、精神的に追い詰められているように感ぜざるを得ません。

2.《過剰供給の呪い》 相続問題で悩む人が相談しましたが、イエスさまは「貪欲に注意し用心せよ」と仰るばかりです。ギリシア語の「貪欲」とは「もっと、もっと」と「より多くを求めて止まぬ生活習慣」のことです。私たちが物質的な豊かさを求め続ける状態です。ラテン語には「吝嗇」の含みもあります。経済成長率などの空疎な数字に固執して、困窮する国民に目を向けない政治家たちを思い出させます。「有り余るほど物を持っていても…」は「過剰、余剰」という語で、食品廃棄物の問題とリンクします。私たちは「財産」(直訳は「手近な物」)が大事だと思い込まされていますが、それは消費社会が生み出した呪縛なのです。

3.《人生はレンタル》 ある金持ちの畑が大豊作だったので、彼は古い倉を壊して新しく大きな倉に穀物と財産を仕舞い込んで、安心していました。ところが、神は「今夜、お前の命は取り上げられる」と宣告されたのです。直訳は「彼らがお前の魂を要求する」です。死神(死の天使)が債務の取り立てにやって来るのです。つまり、私たちの命や魂は神さまからの借り物(レンタル)だったのです。従って、それによって得られた富や宝もまた、必要とする誰かのために活用しなければならなかったのです。私たちの持ち物も、才能も、心も「死蔵」してはいけません。誰かのために使うことが出来るのです。延いては、それこそが、神を喜ばせること、神に栄光を帰することに繋がって行くのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2021年07月11日

みんなでステンシル

今日のCSわいわいタイムはみんなでステンシルをしました。

20210711みんなでステンシル

すてきなポケットティッシュカバーができました。

posted by 行人坂教会 at 22:16 | こどもの教会「あんず」

2021年07月06日

7月第2主日礼拝

       7月11日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”今夜、取り上げられる命なら音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 12章13節〜21節(p.131)
讃 美 歌  27、212(@B)、490、217、453、25
交読詩篇  143編1〜6節(p.160)

・定期教会総会     正午〜午後3時      礼拝堂
・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2021年07月05日

ありとあらゆる患いを【マタイ4:23〜25】

聖句「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(4:23)

1.《癒し系アイドル》 日本社会では、今も「癒し系」という語が広く流通しています。実際「癒し系グッズ」の名で売り込んでいる商品が沢山あります。それに加えて「癒し系」が持て囃されるのが芸能界です。毎年「癒し系タレント」「癒し系イケメン」等のランキングが発表されます。バブル経済崩壊後の1990年代に始まった「癒しブーム」は今尚続いているのです。まさに「失われた30年」、働けども我が暮らし楽にならず、日本国民の多くは潜在的に、生活苦と不安に喘ぐ中で「癒されたい」「癒して欲しい」と願っているのです。

2.《癒しは卑しい?》 90年代の「癒しブーム」に対して「癒しは卑しい言葉だ」(1999年)と頭ごなしに否定したのが、宗教学者の山折哲雄、仏教学者のひろさちや等でした。誰もが「癒されたい」と受身のみで語られる「癒し」は「卑しい」と警鐘を鳴らしたのです。しかしながら「癒されるパワースポット」「ヒーリングスポット」等と、現在、マスコミと共に「癒しブーム」の旗振り役を務めているのは、山折の大スキな寺社仏閣(所謂「日本文化」とやら)であるというのは何とも皮肉な話です。キリスト教にも「癒しの信仰」を前面に出して、教勢拡大に利用している教会があります。患者を医療から遠ざけたり、見世物にしたり、引き替えに破格の献金を要求したり、その多くが「破壊的カルト」です。

3.《病者に仕える者》 福音書の中にも繰り返し「癒した」との語が出て来ます。それを根拠に「癒しの信仰」を主張する教会もあります。そこで改めて、イエスさまが何を為さっていたのか調べてみました。「癒す/テラペウオー」は「セラピー/療法」の語源です。患者本人の成長や発達、回復を促していく事です。しかも「テラペウオー」は「仕える、奉仕する、看護する」が第一義です。名詞の「テラポーン」に至っては「従者、下僕、奴隷」です。治療士(ヒーラー)が霊能力を誇示する癒しではありません。イエスさまは、病気や患い(病名も付けられない症状)に苦しみ悩んでいる人たちに仕え、寄り添って行かれたのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から