こどもの礼拝の後、お庭の柿の実を収穫しました。 柿の木の背が低いので手が届きます。小さいけれど甘い柿です。

それから、ハロウィンのカボチャやマスクの工作をしました。

仮装している人がいます。誰だか分りますか?
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
31 |
標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
こどもの礼拝の後、お庭の柿の実を収穫しました。 柿の木の背が低いので手が届きます。小さいけれど甘い柿です。
それから、ハロウィンのカボチャやマスクの工作をしました。
仮装している人がいます。誰だか分りますか?
聖句「…自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、…十字架の死に至るまで従順でした。」(2:7,8)
1.《心に掛ける》 世の中、自分の事だけで精一杯、他人の事まで知らない。ところが、聖書には「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と言われています。「注意を払う」は「見守る、心に掛ける」の意味です。相手が気付かなくても、見守る人の心の中にあるのです。恩着せがましくありません。勿論「自分のこと」も蔑ろにしてはいけません。「他人の…」は「一方に対する他方」です。ここから自分や身内以外の「隣人」を意味するようになりました。共同体に関わりを持って、世間は広がり、人生も深まるのです。
2.《天まで上れ》 最近、巨大資本の総帥と言われる企業家たちが相次いで、宇宙旅行をビジネスモデルとして成功させました。あの満面の笑みは、誰よりも高い次元に上り、神の視点を手に入れた喜びです。富の支配者が地上を見下ろそうとするのは「バベルの塔」から「トランプタワー」まで変わりません。アポロ15号の乗組員アーウィンは、後に福音伝道者と成りましたが、「月面を歩く人間よりも、地上を歩むイエスの方が重要だ」と言い残しています。上を目指し「優れた者」に成ろうとしても、待っているのは「利己心(独善)と虚栄心(自惚れ)」に過ぎません。舞い上がっているのは本人だけで、恥ずかしい限りです。
3.《へりくだる》 反対に、イエスさまの在り方は「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」ですが、「固執」とは「手放したくない宝物」の意味です。主にとっては、神さまとの親子関係、一体感です。それを手放されたからこそ、十字架の上で絶望の叫びを上げられたのです。「自分を無にする」は自分を明け渡すことです。「へりくだる」には「肉体労働をする」の意味もあります。姿形を表わす3つの語「形」「似姿」「有様」が使われていて、地上に生きたイエスさまが「良い御身分」ではなく、汗と泥に塗れて働かれたことが言われています。そのようにして「神の愛の何たるか」を身をもって顕わされたのです。ラテン語の「へりくだり/フミリタース」は「大地/フムス」が語幹です。私たちは「大地から離れては生きられない」のです。「地面」から離れることは致命的です。
朝日研一朗牧師
聖句「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:15)
1.《無謀な戦争》 年齢を重ねたせいか、最近よく戦争を思い出します。最近の政治家たちの言動が軽いのも、戦争の実体験が無いからでしょう。あれば、もう少し人の心に響く言葉を語られるのではと思います。3歳の頃、父の勤務地の岡山で空襲を経験しました。逃げ込んだ防空壕も火の粉が入り、後楽園の対岸に避難して助かりましたが、沢山の焼死体が積み重なっているのを見ました。敗戦後には、父の転任で被爆間もない広島に引っ越し、街に残る原爆の爪痕をそこかしこに目にしました。どうして、このような無謀な戦争をしたのでしょうか。
2.《人の痛みを》 表題を「共に生きる」としましたが、後悔しています。現実には、他者に寄り添って生きることは大変に難しいのです。人の心の痛みを自分のものと出来るかどうか、全てはそこに掛かっていると思います。パラリンピックを見て、障がいを持つ人たちの不屈の姿に目を開かれました。顔と顔とを合わせ、同じ目線で接する。そして、心の中でも目線を合わせることが大切です。小学校5年生の時、足を引き摺る同級生をからかったことがありました。謝罪する機会を逸したままに成ってしまいました。今でも申し訳なかったと思っています。寄り添うべき相手に、私は寄り添っていなかったのです。
3.《乗り越える》 同じ官舎に暮らす高校時代の同期生がいました。絵も文も上手でしたが、日常生活の自己管理が全く出来ない男でした。ホームレス状態に成り、公園のトイレで寝起きしていたこともあったそうです。見兼ねた私は、彼に事務所の空き部屋を提供して、住居として使って貰うことにしました。その一室はゴミ屋敷と化しました。住民票すら無いので健康保険も取れません。転倒して起き上がれなくなり、入院するに際して戸籍を割り出すところから始めました。1年後、彼と連絡不通となり、漸く彼の姪に連絡がついて「亡くなった」と知りました。もう少し親身に世話をしていればと後悔しました。人は自分の目線や価値観でしか動こうとしません。しかし、イエスさまは違いました。キリストは言葉だけではなく実際に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」生き方をされたのです。
三井 務
聖句「一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。『わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(9:47,48)
1.《主の御名により》 私たちは常日頃から、祈りの締めの言葉に「イエスのお名前によって」と添えて「アーメン」と唱えます。この「主の御名によって」が抜けると、皆で「アーメン」を唱和するのがズレてしまいます。間合いが取れないのです。18世紀のモラヴィア兄弟団やメソジストの祈り会に端を発する習慣でしょう。これが絶対でも必須でも無い事は、カトリックの祈祷書を見ても、一斉に各自で祈るペンテコステ派を見ても分かります。
2.《身を低くして》 私たちが「主の御名によって」と言い添えるのは、イエスさまが「私の名によって願えば、私が叶える」(ヨハネによる福音書14章、16章)と仰っているからです。また「フィリピの信徒への手紙」の「キリスト賛歌」(2章9〜10節)でもイエスの御名こそが「最高の名前」だと言われています。そこで、その「主の御名」が何に光を当てているのか知るべきです。ここでは「子どもを受け容れる」ことです。2歳から5歳くらいまでの幼児です。幼児の手を取って御側に立たせられたイエスさまは、きっと身を屈めて、この子と同じ目線に成って居られたはずです。その周りに「自分たちの内、一番偉いのは誰か」と浅ましい議論をしていた弟子たちが、呆然として立っていたはずです。
3.《小さくなろう》 「最高の名前」は年端も行かぬ幼な子と共にあったのです。権威や権力とは正反対の世界です。私は「オノマトペ/擬音語」を思い出します。星が「キラキラ」とか皆が「にこにこ」です。元々はギリシア語で「オノマ/音」を「ポイエイン/作る」事です。イエスさまの「名」も「オノマ」です。赤ちゃんの時には「喃語」です。人との間合いを取るような発話です。その進化系がオノマトペです。イエスさまは「偉そうになったら、いつでも何度でも、ここに戻って来なさい」と仰っているのでは無いでしょうか。「誰が一番偉いか、大きいか」等と競い合っていたら(権威主義、権力志向)、必ず行き詰って窒息するのです。でも、小さくなれば良いのです。それが「主の名によって」祈る事です。
朝日研一朗牧師
聖句「…自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」(3:2)
1.《ジュニア》 その昔、米国のテレビドラマで活躍したエフレム・ジンバリスト・ジュニアという俳優がいました。父親はエフレム・ジンバリストという有名なヴァイオリニストだったのです。このように米国では、親と同名の息子や娘に「ジュニア」と名付ける習慣があります。日本では歌舞伎や能楽などの芸能の世界で、名跡を継ぎますが、家元制度としてブランドとタニマチを受け継ぐのです。その点、新約聖書に言う「神の子」は「何代目」よりは「ジュニア」に近いでしょう。
2.《神の子ら》 冒頭で「子たちよ」と呼び掛けられているのは「テクニア」、誰から生まれたか、誰の子どもかに重点の置かれた語です。だから「神の子」と言い換えられています。私たちは神さまの愛を受けて「神の子」とされたのです。イエスさまを「神の子」と呼ぶ場合「フィオス/御子」が使われます。こちらは「世継ぎ」の意味です。両者の違いを「実子」と「養子」と譬えた牧師がいますが、却って誤解を招き易いと思います。日本では、血の繋がらない親子関係を軽視する傾向があるからです。しかし「神は、その独り子をお与えになったほどに」私たちを「愛された」のです。実子を差し置いてまで、養子を愛することがあるでしょうか。私たちは、神の愛と御子の十字架によって「生まれた子ども」なのです。
3.《愛する者》 手塚治虫のマンガ『マグマ大使』には、侵略者ゴアの手先となって働く「人間モドキ」という生き物が登場します。どんな人間にも変身して、社会の中に潜り込むのですが、実体も人格も、感情も個性もありません。「もどき」とは「似て非なる滑稽なもの」を表わす古典芸能の用語です。幾ら「私たちは神の子です」と主張しても「人間モドキ」同然の連中が一杯います。人を愛する心を失ってしまったら、私たちも忽ち「もどき」に成ってしまうのです。世にある時、主は御自らを「人の子」と称されました。「人として、人と共に、人の間で生きる」という強い思いを表わされたのです。私たちが徹底して「人の子」として生きる時、僅かかも知れませんが、主の御側に近付けるのでは無いでしょうか。
朝日研一朗牧師