2021年10月11日

小さい人と大きい人【ルカ9:46〜48】

聖句「一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。『わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(9:47,48)

1.《主の御名により》 私たちは常日頃から、祈りの締めの言葉に「イエスのお名前によって」と添えて「アーメン」と唱えます。この「主の御名によって」が抜けると、皆で「アーメン」を唱和するのがズレてしまいます。間合いが取れないのです。18世紀のモラヴィア兄弟団やメソジストの祈り会に端を発する習慣でしょう。これが絶対でも必須でも無い事は、カトリックの祈祷書を見ても、一斉に各自で祈るペンテコステ派を見ても分かります。

2.《身を低くして》 私たちが「主の御名によって」と言い添えるのは、イエスさまが「私の名によって願えば、私が叶える」(ヨハネによる福音書14章、16章)と仰っているからです。また「フィリピの信徒への手紙」の「キリスト賛歌」(2章9〜10節)でもイエスの御名こそが「最高の名前」だと言われています。そこで、その「主の御名」が何に光を当てているのか知るべきです。ここでは「子どもを受け容れる」ことです。2歳から5歳くらいまでの幼児です。幼児の手を取って御側に立たせられたイエスさまは、きっと身を屈めて、この子と同じ目線に成って居られたはずです。その周りに「自分たちの内、一番偉いのは誰か」と浅ましい議論をしていた弟子たちが、呆然として立っていたはずです。

3.《小さくなろう》 「最高の名前」は年端も行かぬ幼な子と共にあったのです。権威や権力とは正反対の世界です。私は「オノマトペ/擬音語」を思い出します。星が「キラキラ」とか皆が「にこにこ」です。元々はギリシア語で「オノマ/音」を「ポイエイン/作る」事です。イエスさまの「名」も「オノマ」です。赤ちゃんの時には「喃語」です。人との間合いを取るような発話です。その進化系がオノマトペです。イエスさまは「偉そうになったら、いつでも何度でも、ここに戻って来なさい」と仰っているのでは無いでしょうか。「誰が一番偉いか、大きいか」等と競い合っていたら(権威主義、権力志向)、必ず行き詰って窒息するのです。でも、小さくなれば良いのです。それが「主の名によって」祈る事です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:56 | 毎週の講壇から