2021年10月31日

今日は宗教改革記念日です。

こどもの礼拝の後、お庭の柿の実を収穫しました。 柿の木の背が低いので手が届きます。小さいけれど甘い柿です。

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それから、ハロウィンのカボチャやマスクの工作をしました。

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仮装している人がいます。誰だか分りますか?

posted by 行人坂教会 at 15:09 | こどもの教会「あんず」

変わる世界の只中で

1.感覚が麻痺する

2020年に引き続き、2021年も「新型コロナウイルス感染症」に対する不安と恐怖から、私たちは外出を控えて暮らさなくてはなりませんでした。特に、夏から秋に掛けての「第五波」は深刻でした。何をどう考えてみても「オリパラ」を強行開催した結果としか思われません。あの時期に入院も出来ぬまま、死んで行った人たちや遺族はどう感じているでしょうか。それに加えて「あの時期を境にして、もうすっかり外出する習慣が途絶えてしまった」という高齢者の呟きを、最近、私は耳にしています。

「オリンピック憲章」の「オリンピズムの根本原理」には、「オリンピズムの目的は、人類の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである」と、立派なお題目が掲げられています。けれども、強行開催によって、日本国民の「尊厳は軽んじられた」と思いました。私たちは逼塞した状況に放置されたまま、マスコミが盛んに「メダルラッシュ」を報じていたのも、到底「調和のとれた発展」とは思われませんでした。

テレビで「オリパラ」の開会式や閉会式を見ていると、新国立競技場に打ち上げ花火が輝く、綺麗な映像を流していましたが、自分が同じ国にいるという感覚を持てませんでした。自動車を走らせれば、僅か18分で行ける距離(11.9キロ)に住んでいると言うのに、どこか遠い他所の国(異世界)で行なわれているようでした。

高齢者の「ひきこもり」程では無いにせよ、最近に成って、自分もまた、何かを失っているのでは無いかと気付いたのです。コロナ感染者は味覚や嗅覚を奪われる事があると言います。同じように、私たちもまた、感覚の一部が麻痺してしまっているのでは無いでしょうか。

2.認識が変容する

10月半ばまで暑い日が続き、衣替えが出来ませんでした。ところが、気温がジェットコースターのように一気に下降してから、慌てて冬物を取り出したのは、私だけでは無いはずです。その時に「自分の中の季節感が変調を来たしている!」と感じたのです。「そう言えば、今年は夏があったのだったかしら」。あんなに暑かった夏の記憶すらも、怪しく成っているのです。驚いた事に、新年や春の記憶もあやふやではありませんか。果たして、自分は2021年を本当に生きていたのか、余りにも実感が乏しいのです。

例えば、冬でも無いのに1年中、マスクをして暮らしています。私たちはマスクをした顔でしか、(家族以外の)他者を見なくなっているのです。今は、飲食店の時短営業が解除されて、アクリル板越しかも知れませんが、同僚や友人と飲食をする事が出来るように成って来ました。でも、それ以外の時間は、マスク着用がエチケットです。公衆の面前に出る時、口と鼻は覆い隠すべきものに成ってしまったのです。つまり、今や私たちは顔の半分以上が覆い隠された状態で、お互いを認識するように成っているのです。これは単に「顔認識」の問題ではなく「他者認識」の在り方を大きく変えてしまうでしょう。

1日の内に何十回も消毒液で両手を拭います。「強迫性障害」の症状の1つに「汚染不安」があります。例えば、自分の手が汚れているのではないかという強迫観念から、何度も何度も手を洗う患者さんがいます。勿論、お店に買い物に行って、消毒液を付けたり検温したりしても、私たちは不安や恐怖に責め苛まれている訳ではありませんが、やっている事は同じですね。社会の構成員が全員で同じ事を、常に繰り返しているのですから、精神が影響を受けない訳がありません。

特に子どもたちの受ける影響が心配です。子どもの描くお絵かきの「顔」から「口や鼻」が消えてしまうのでは無いか。家族を越えた周辺の人たち、近所の人たちを「人」として認識できるのだろうか。家族以外の人たちと飲食をする機会が減って、これまで以上に共生感覚を持てなくなるのでは無いだろうか。潔癖症の子が増えたり、場合によっては「強迫性障害」を発症してしまう子も出て来るのでは無いか…。

3.世界も変わるか

「『コロナ前』と『コロナ後』で世界は変わってしまった」と言われます。けれども、その意味が本当に明らかにされるのは、これからだろうと思います。私たちが社会の変容に気付くのは、随分と後に成ってからなのです。そして、何年も経ってから「あの時を境にして変わったんだね」と皆が認識し始めるのです。でも、もうその時には、次なる変容の波が押し寄せて来ているかも知れません。

聖書の世界で「変容」と言えば「主の変容/Transfiguration of Jesus」です。イエスさまが3人の弟子たちを伴って「高い山」(正教会では「タボル山」とされています)に登った時の出来事です。イエスが白く光り輝く御姿に変わって、旧約聖書の律法者モーセ、預言者エリヤと語り合っていたという話です。このエピソードは古来「これから始まる十字架の受難においても、希望を見失わないように」というメッセージとされています。ローマカトリック教会は、8月6日を「主の変容日」として記念していますが、ルーテル教会は「灰の水曜日」の直前の主日に定めています。

ドイツ・ロマン派を代表する作曲家、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「死と変容」(Tod und Verklärung)も思い出されます。貧しい病人が臨終を迎える姿を描いているのですが、その死によって、彼の世界は恐怖から一転、安らぎに「変容」するのです。ドイツ語では「キリストの変容」を「die Verklärung Christi」と言いますが、「Verklärung/フェルクレールンク」とは「浄化、純化」を意味します。十字架の苦難を通して復活があるように、もしかしたら「変容」がもたらす「浄化、純化」という事もあるのかも知れません。

牧師 朝日研一朗

【2021年11月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:00 | ┣会報巻頭言など