説 教 ”夢みる惑星”

聖 書 マタイによる福音書 1章18〜25節(p.1)
讃 美 歌 27、176、490、234、244、89
交読詩篇 詩編 113編1〜9節(p.130)
・臨時総会 礼拝後 礼拝堂
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(4:16)
1.《クリスマス》 クリスマス(主の降誕日)を12月25日に決めたのは、325年のニカイア公会議からです。ミトラ教の「不滅の太陽の誕生日」をパクったのです。東方教会は1月6日としていますが、オシリスの祭りが起源だそうです。他にも、神の子は「生没同日」であるべきとの考えから「受難日」とする説、聖書の記述から計算して、ユダヤ教の秋の収穫祭「仮庵祭」と同日とする説もあります。けれども、既に日本社会が受容した通り、12月25日で良いのです。
2.《メッセージ》 クリスマスにとって重要なのは「何月何日か」ということではありません。その内容、メッセージなのです。単なる季節のお祭りにしてはいけないのです。クリスマスのメッセージは「暗闇の中の光」です。明るい光のみを求めて、光ばかり見ようとすると、却ってクリスマスに辿り着けません。「マタイによる福音書」が預言の成就として引用する「イザヤ書」9章では「闇の中を歩む民は…」です。「闇路を行く」なのです。「マタイ」は上の句も下の句に合わせて「住む」と読みました。それは「座る」という動詞ですが、ソファーで寛いでいるのではありません。世の闇に押し潰されて「座り込んでいる」のです。
3.《家なき子ら》 広島で被爆し、朝鮮戦争の開戦後に自死を遂げた原民喜という作家がいます。彼は原爆が再び使用されるのでは無いかと不安に苛まれながら、友人に宛てた手紙に「家なき子らのクリスマス」という詩を書いています。しかし、日本社会は「朝鮮特需」の中、戦争で深い傷を負った者たちの痛みに蓋をしたまま、経済成長に突き進んでいました。マロの『家なき子』にも、クリスマスに賑わう街の喧騒をよそに、寒空の下でイヴを迎える場面があります。ドビュッシーが生涯最後に書いた歌曲(作詞も)「家なき子らのクリスマス」では、第一次大戦の戦災孤児たちが「プレゼントは無くても良いから、せめて日毎の糧を!」と悲痛な祈りを奉げています。クリスマスは元来、暗闇を見詰める季節です。信仰者の人生は「暗闇の中に生まれる光を探し求める旅路」なのです。
朝日研一朗牧師
礼拝の前、子どもたちがクリスマスツリーを飾って、来週からのアドベントの準備をしました。
収穫感謝日合同礼拝では、子どもたちも司式や聖書朗読をしました。
聖句「エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。また、ざくろやいちじくも取った。」(13:23)
1.《チョコ工場》 子どもたちに人気のある『チャーリーとチョコレート工場』という映画があります。これまで一般人が誰も入ったことの無い、謎のチョコレート工場に、金のカードを引き当てた5人の子どもたちが招待されます。食いしん坊、負けず嫌い、我儘な金持ち、捻くれたゲーマー、貧乏だけど家族思いの子です。工場の中には、驚いたことに、チョコレートの滝と小川が流れ、木も草もファッジで出来ている、そんな空間が広がっていたのです。
2.《お菓子の家》 『チャリチョコ』の元ネタは、グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」に登場する「お菓子の家」かも知れません。この物語の背後にも、14世紀にヨーロッパを襲った大飢饉の影響があるとされています。ヘンゼルとグレーテルの兄妹は口減らしのために、実の親によって森の奥深くに捨てられるのです。更に遡ると「民数記」の「エシュコルの葡萄」に辿り着きます。エジプトを脱出した難民が飢餓や数知れぬ困難を経て、漸く「約束の土地」に到達します。モーセが送り出した斥候が、巨大な葡萄の房を二人がかりで棒に下げて戻って来ます。文字通りカナンは「乳と蜜の流れる地」、豊饒の地だったのです。
3.《人生ゲーム》 イスラエルの民はその地に侵入することを躊躇いました。住民のアナク人が巨人だったからです。それで更に数十年間、彼らは荒れ野を流浪する運命と成ります。従って、この物語は「エジプトで奴隷根性の付いた民は、勇気と信仰をもって戦わなかったので、無駄な歳月を過ごす結果と成った」という教訓として語られます。しかし「戦わない」生き方もあって良いのでは無いでしょうか。その土地を奪われたら、アナク人は故郷を奪われるのです。「椅子取りゲーム」ではのんびり屋さんが押し退けられて椅子を奪われます。最後には、1つだけ残った椅子を巡って争います。ゲームだから楽しいのです。でも、世の中が「椅子取りゲーム」一辺倒に成ってはいけません。勉強もスポーツも商売も競争ですが、人生には競争しなくても良い場所(家庭や教会)も必要なのです。
朝日研一朗牧師
聖句「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(12:28)
1.《デーモン》 近年ブームを巻き起こした『鬼滅の刃』の英題は「デーモン・スレイヤー/鬼殺し」です。『鬼滅の刃』には、醜悪な鬼たちが登場しますが、元々は皆、普通の人間だったのです。不幸や貧困や虐待など、この世の残酷に直面して鬼に取り憑かれたのです。中国朝鮮から「鬼」の観念が入って来た時、「鬼」は目に見えない存在でした。姿形の無いものこそ最も恐ろしいのです。だから、洋の東西を問わず、人間は鬼や悪魔を描いて姿を与えようとします。「ベルゼブル」も巨大な蝿の姿が定番に成りましたが、それは19世紀に成ってからのことです。
2.《悪霊の家》 イエスさまの所に「悪霊に取り憑かれた人」が連れられて来ますが、彼自身は「悪霊」ではなく「人」なのです。どんな病気だったのかは分かりませんが、大変に苦しんでいます。本人のみならず、連れて来た家族も暮らしが成り立たなくなって苦しんでいたと思います。しかも「悪霊憑き」ともなれば、隣近所からも村八分にされ、結婚や祭り等で繋がる共同体からも排除されます。村に降り掛かる災いも全て「憑き物筋の家」のせいにされるのです。そんな中で、彼らは絶望して「神も仏も無い!」と叫びます。人間は神を呪い、人や社会を呪い、家族や自分自身までも呪うことで「鬼」に成って行くのです。
3.《神の国へ》 悪魔、悪霊、鬼は、人間を神から引き離し、神を信じさせないようにするものです。しかし、神が人の犯す罪や過ちを赦すのと同じく、たとえ神を呪い罵っても、神は赦して下さると、主は保証して居られます(31節)。イエスさまは「悪霊に取り憑かれた人」を癒されますが、その件について、ファリサイ派から「悪霊で悪霊を祓っている」と難癖を付けられます。けれども、イエスさまは声高に「私は神の霊で悪霊を祓っている」等と抗弁なさらず、「私が神の霊で悪霊を祓っているなら、もう神の国は来ている」と仰るのです。「神の国」とは「神の居られる所」です。「愛と慈しみのある所に神あり」です。ファリサイ派は気付きませんでしたが、癒された人は「信仰を告白でき、信仰の目が開かれた」はずです。もう神を呪わなくても、我と我が身を呪わなくても良いのです。
朝日研一朗牧師