2021年11月15日

悪霊の家から神の国へ【マタイ12:22〜32】

聖句「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(12:28)

1.《デーモン》 近年ブームを巻き起こした『鬼滅の刃』の英題は「デーモン・スレイヤー/鬼殺し」です。『鬼滅の刃』には、醜悪な鬼たちが登場しますが、元々は皆、普通の人間だったのです。不幸や貧困や虐待など、この世の残酷に直面して鬼に取り憑かれたのです。中国朝鮮から「鬼」の観念が入って来た時、「鬼」は目に見えない存在でした。姿形の無いものこそ最も恐ろしいのです。だから、洋の東西を問わず、人間は鬼や悪魔を描いて姿を与えようとします。「ベルゼブル」も巨大な蝿の姿が定番に成りましたが、それは19世紀に成ってからのことです。

2.《悪霊の家》 イエスさまの所に「悪霊に取り憑かれた人」が連れられて来ますが、彼自身は「悪霊」ではなく「人」なのです。どんな病気だったのかは分かりませんが、大変に苦しんでいます。本人のみならず、連れて来た家族も暮らしが成り立たなくなって苦しんでいたと思います。しかも「悪霊憑き」ともなれば、隣近所からも村八分にされ、結婚や祭り等で繋がる共同体からも排除されます。村に降り掛かる災いも全て「憑き物筋の家」のせいにされるのです。そんな中で、彼らは絶望して「神も仏も無い!」と叫びます。人間は神を呪い、人や社会を呪い、家族や自分自身までも呪うことで「鬼」に成って行くのです。

3.《神の国へ》 悪魔、悪霊、鬼は、人間を神から引き離し、神を信じさせないようにするものです。しかし、神が人の犯す罪や過ちを赦すのと同じく、たとえ神を呪い罵っても、神は赦して下さると、主は保証して居られます(31節)。イエスさまは「悪霊に取り憑かれた人」を癒されますが、その件について、ファリサイ派から「悪霊で悪霊を祓っている」と難癖を付けられます。けれども、イエスさまは声高に「私は神の霊で悪霊を祓っている」等と抗弁なさらず、「私が神の霊で悪霊を祓っているなら、もう神の国は来ている」と仰るのです。「神の国」とは「神の居られる所」です。「愛と慈しみのある所に神あり」です。ファリサイ派は気付きませんでしたが、癒された人は「信仰を告白でき、信仰の目が開かれた」はずです。もう神を呪わなくても、我と我が身を呪わなくても良いのです。

朝日研一朗牧師

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2021年11月09日

11月第2主日礼拝(障がい者週間)

      11月14日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”悪霊の家から神の国へ” 音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 12章22〜32節(p.22)
讃 美 歌  27、108、490、115、410、88
交読詩篇  詩編82編1〜8節(p.95)

・・・当日の音声録音を聴く
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2021年11月08日

いのちのカレンダー【ヨハネ 11:1〜16】

聖句「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。」(11:9)

1.《基礎疾患》 私は軽度の糖尿病を持っていて、毎日錠剤を服用し、毎月血液検査をして体調をコントロールしています。ウイルスワクチン接種の際に、基礎疾患を持っている人が優先されるということがあって、お得感を抱いたものです。基礎疾患は「生活習慣病」と重なる要素が大きい。病気に罹ってから治すのではなく、致命的な病気に罹る前に対処するという「予防医学」の発達の御蔭です。勿論、今から2千年前の古代社会には、基礎疾患も生活習慣病もなく、予防医学の考え方も存在しませんでした。あるのは「病気」だけでした。

2.《ある病気》 「病人」「病気」という語が繰り返されていますが、それが何の病気であったのか、どんな症状なのか、どこが苦しそうなのか、全く説明がありません。病気を特定していません。と言うことは、これはラザロ個人の病気ではなく、私たちの病気であるということです。「病気/アステネイア」は「力が無くなる」という意味です。つまり、私たちの生命も「病気」が進行しているようなものです。体力、知力が衰え、やがては飲食する力、呼吸する力も削ぎ落とされて行きます。昨日できたことが今日はできなくなる。まさしく、生き続けることは「無力」に成って行くプロセスに他なりません。

3.《命の日付》 そんな人間の現実に対して、主は「この病気(無力)は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と仰るのです。即ち「命は死で終わるものではない」のです。病気の他にも、この世には不条理な死が溢れています。ホスピスケアのために尽力した精神科医、キューブラー=ロスは、脳梗塞を発症して半身不随となり、そんな自分を受け容れることが出来ず、神を呪いましたが、最期は愛する家族に囲まれて安らかに息を引き取りました。岩崎航という詩人は、3歳で進行性筋ジストロフィーを発症し、17歳で自死を考えるまでに絶望しますが、25歳から詩を詠み始めました。自分の周りに光の源を感じ、そこから自分が自然に光を受け取っていたことに気付いたそうです。「日付の大きい/カレンダーにする/一日、一日が/よく見えるように/大切にできるように」。

朝日研一朗牧師

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旭日亭菜単(続き)その67

  • 「幻想童話名作選/文豪怪異小品集特別篇」(東雅夫編、平凡社ライブラリー)
    完成度の高さから、谷崎潤一郎の「人魚の嘆き」が最高です。表紙の絵も本作から描かれています。清国の大金持ちの貴族の美青年に、阿蘭陀商人が欧羅巴産の人魚を売りに来るのです。これだけでも身震いするほどに堪りません。鈴木三重吉の「湖水の女」は「鶴女房」や「雪女」「天女の羽衣」と同じく「異類婚姻譚」の童話ですが、よく考えてみたら、私たち男性にとって女性というのは「異類」以外の何物でも無い訳です。主人公の男ギンにとっては無惨極まりない幕切れですが、最初から運命付けられているのかも知れません。宮沢賢治の「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」(妖怪物)を読んでいると、またもや「失われた妹」のモチーフが出て来ました。ファンタジーの世界では、昨今の『鬼滅の刃』にまで繋がるテーマなのですね。
  • 「悪魔が憐れむ歌/暗黒映画入門」(高橋ヨシキ著、ちくま文庫)
    雑誌「映画秘宝」を講読していた時代、著者のヤコペッティ推しには瞠目させられたものです。今改めて読み直しても、ヤコペッティ論は(それに関連しての『ザ・コーヴ』の論評も)素晴らしいと思います。そこには、映画とは何か、ドキュメンタリーとは何か、リアルとは何かという鋭い問い掛けに満ちています。ティム・バートンの『バットマン・リターンズ』論、スピルバーグ映画の「ライド論」(幾ら「地獄巡り」をして見せたところで、所詮、アミューズメントパークの乗り物に過ぎないとの由)等、ハッとさせられます。メル・ギブソンの『パッション』がホラー映画でしかないことを喝破したのも彼の功績の1つです。
  • 「今昔物語集」(作者未詳、大岡玲訳、光文社古典新訳文庫)
    「あまりに長く生きていると、人の親は必ず鬼となってわが子をも喰らおうとするものなのである」(「猟師の母が鬼になる話」)。「老いて立ち居も不自由な母親」と書いてあるのに、それが鬼に成っていたという訳です。「姥捨て」を正当化する観念のように思えます。かと思えば、反対に「捨てる定めの母をかくまった大臣の話」(インドの話)では、国王が回心して「老人を捨てる国」改め「老人を養う国」としようと勅令を出してハッピーエンドと成ります。美しい姫が貴人を屋敷の中に誘い込み、寝入ったところを見計らい、屋敷の主人が男と供の者たちを皆殺しにして金品を奪う話、「身代わりになって死んだ女の話」、これなんか、19世紀英国の人気作家、ウィルキー・コリンズの「恐怖のベッド」とソックリでした。
  • 「刀/文豪怪談ライバルズ!」(東雅夫編、ちくま文庫)
    やはり、流行作家は一気に読ませます。宮部みゆきの「騒ぐ刀」等を読むと、これが彼女の初期作品であることが俄かに信じられません。後の連作に繋がる短編なのですが、最初からシリーズ化を念頭にキャラが創造されているようにしか思えません。宮部らしい人情厚い展開で、ヤバイ話も安心して読むことが出来ます。それに比べると、大河内常平の「妖刀記」も、加門七海の「女切り」も、東郷隆史の「にっかり」も、日本刀に取り憑かれた男たちの定番の物語ですが、斬るという行為の耽美性を、手を変え品を変え、競い合うような作品群です。特に前の2作は斬る対象が女性なので、些か性倒錯気味です。泉鏡花の「妖剣紀聞」も、桃の花の精霊のような少女が登場しますが、こちらは『聊斎志異』を思わせます。
  • 「折りたたみ北京/現代中国SFアンソロジー」(ケン・リュウ編、中原尚哉他訳、早川文庫)
    いずれ読まねばと思っていたのですが、ユダヤSFアンソロジーの流れで読むことにしました。劉慈欣(リウ・ツーシン)の「円」は有名な『三体』からの1章なのですが、面白すぎて悶絶しました。同じ作者の「神様の介護係」も凄い。老人として地球に降り立ち、各家庭での介護をお願いする創造主の宇宙人の集団という発想がブッ飛んでいる。郝景芳(ハオ・ジンファン)による表題作ですが、クリストファー・ノーランの『インセプション』の映像発想はここからでは無いかと思いました。馬伯庸(マー・ボーヨン)の「沈黙都市」は、言うまでも無く、ブラッドベリの『華氏451度』へのオマージュですが、ここでデュラス(!)という女性によって暗誦されるのがオーウェルの『一九八四年』です。デストピアなのに嬉しくなってしまいます。個人的には、夏笳(シア・ジア)のファンタジー「百鬼夜行街」が一番好きかも知れません。今敏監督の『パプリカ』と同じ味わいがあります。「人がいなくなっても世界は続く。ほら、今夜の月はこんなにきれい。歌いたければ歌えばいいし、歌いたくなければ寝ていればいい。歌えば世界が聞く。黙すれば万物の歌が聞こえる」(夏筎「龍馬夜行」)。
  • 「ゴールデンカムイ」第27巻(野田サトル作、集英社)
    「切り裂きジャック」の登場以来、繰り返し札幌教会の前景が描かれていましたが、遂に会堂の中で、鶴見中尉がアシリパさんとソフィアに、ウイルクの物語をします。鶴見中尉の変態趣味全開(人の皮を被るとか)の告白(と言うか、アシリパに対する精神的拷問)ですが、悪魔というのは、嘘に真実を織り込んで語りますから、多分、これで全ての謎の糸が解(ほぐ)れるという訳では無いのでしょうね。札幌教会の皆さん、読んでますか。
  • 「姫君を喰う話/宇野鴻一郎傑作短編集」(宇野鴻一郎著、新潮文庫)
    九鬼匡規による綺麗なお姫様の表紙絵に誘われて買ってしまいました。表題作は本題に入るまでの薀蓄が無駄としか言いようがありませんが、物語に入るや否や、もう頁を捲る手が止まらなくなります。映画化されて有名な「鯨神」は長崎のキリシタン集落が舞台ですし、「花魁小桜の足」にも踏絵の話が出て来るし、「西洋祈りの女」のヒロインは英語でお祓いをする祈祷師ですし、微妙にキリスト教ネタが鏤められています。どれも珠玉と言うに相応しい短編ですが、やはり「ズロース挽歌」は生半可な文学者などには、決して覗き見ることの出来ない世界に到達していると思います。
posted by 行人坂教会 at 23:27 | 牧師の書斎から

2021年11月02日

11月第1主日礼拝(聖徒の日、永眠者記念礼拝)

      11月 7日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”いのちのカレンダー” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 11章1〜16節(p.188)
讃 美 歌  27、108、490、383、111、385、88
交読詩篇  詩編82編1〜8節(p.95)


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2021年11月01日

人の心に書かれた手紙【Uコリント3:1〜6】

聖句「あなたがたは、…墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(3:3)

1.《文書の変遷》 「メール」と言っても、今では「DM便」のカタログやEメールばかりですが、本来は「郵便」のことです。最近では、すっかり、手書きの手紙や葉書を遣り取りすることが少なくなりました。大昔の人は「木簡、竹簡」に書きました。文明発祥の地、メソポタミアやエジプトでは「粘土板、石板」に、古代ギリシアでは「陶器の破片」に、ヨーロッパや東南アジア、中南米では「木の樹皮」に文字を刻みました。やがて「パピルス」「羊皮紙」が発明されます。中国で製紙技術が確立するまで、こんなにも涙ぐましい努力をしていたのです。

2.《手紙の重み》 旧新約聖書も元々はパピルスに書かれた巻物でした。パウロの手紙もパピルスでした。当時、パピルスは高価だったので、仲間が共同出資して購入したのです。ローマ帝国内の郵便は軍事や行政の通達に限られていましたので、一般人は使いが旅行して届けたり、商人や船長に委託したりしました。パウロ個人の手紙ではなく、大勢の人たちの思いが詰まった手紙だったのです。パウロの後からコリント教会に来た「教師」が、大物の「推薦状」を携えて信頼を得た上で、パウロを誹謗中傷したらしいのです。パウロとその仲間は、自分たちの名誉よりも、信徒の福音信仰が危機に晒されていることを危惧して、手紙を書いたのです。

3.《人の心の板》 コリントの信徒たち自身が「手紙」です。神さまがパウロたちを筆記具として、彼らの心に信仰を刻んで下さった「手紙」なのです。私たちも、イエスさまから連綿と続く「手紙」です。誰かに読まれる日を待つ「生身の手紙」です。信仰は「頭」で理解納得するものではなく「心」に宿るものです。昔の人たちは、自分たちの知識や経験、感情や信仰を後世に残そうと「石の板」に刻みましたが、文字は律法と成り、人を殺すように成りました。それと共に「偶像化」も起こります。壮麗なミサもカテドラルも偶像と化します。「聖書のみ」と宣言しても原理主義者は聖書すら偶像化しています。「心の板」ではなく「石の板」に刻まれた文字に仕えているからです。大切なのは聖書の文言ではなく、福音を心に刻み、信仰を生きようとすることです。それが「聖書の心」なのです。

朝日研一朗牧師

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