2021年11月01日

人の心に書かれた手紙【Uコリント3:1〜6】

聖句「あなたがたは、…墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(3:3)

1.《文書の変遷》 「メール」と言っても、今では「DM便」のカタログやEメールばかりですが、本来は「郵便」のことです。最近では、すっかり、手書きの手紙や葉書を遣り取りすることが少なくなりました。大昔の人は「木簡、竹簡」に書きました。文明発祥の地、メソポタミアやエジプトでは「粘土板、石板」に、古代ギリシアでは「陶器の破片」に、ヨーロッパや東南アジア、中南米では「木の樹皮」に文字を刻みました。やがて「パピルス」「羊皮紙」が発明されます。中国で製紙技術が確立するまで、こんなにも涙ぐましい努力をしていたのです。

2.《手紙の重み》 旧新約聖書も元々はパピルスに書かれた巻物でした。パウロの手紙もパピルスでした。当時、パピルスは高価だったので、仲間が共同出資して購入したのです。ローマ帝国内の郵便は軍事や行政の通達に限られていましたので、一般人は使いが旅行して届けたり、商人や船長に委託したりしました。パウロ個人の手紙ではなく、大勢の人たちの思いが詰まった手紙だったのです。パウロの後からコリント教会に来た「教師」が、大物の「推薦状」を携えて信頼を得た上で、パウロを誹謗中傷したらしいのです。パウロとその仲間は、自分たちの名誉よりも、信徒の福音信仰が危機に晒されていることを危惧して、手紙を書いたのです。

3.《人の心の板》 コリントの信徒たち自身が「手紙」です。神さまがパウロたちを筆記具として、彼らの心に信仰を刻んで下さった「手紙」なのです。私たちも、イエスさまから連綿と続く「手紙」です。誰かに読まれる日を待つ「生身の手紙」です。信仰は「頭」で理解納得するものではなく「心」に宿るものです。昔の人たちは、自分たちの知識や経験、感情や信仰を後世に残そうと「石の板」に刻みましたが、文字は律法と成り、人を殺すように成りました。それと共に「偶像化」も起こります。壮麗なミサもカテドラルも偶像と化します。「聖書のみ」と宣言しても原理主義者は聖書すら偶像化しています。「心の板」ではなく「石の板」に刻まれた文字に仕えているからです。大切なのは聖書の文言ではなく、福音を心に刻み、信仰を生きようとすることです。それが「聖書の心」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の礼拝案内