説 教 ”祈りから始める” キスト岡崎さゆ里宣教師(RCA)
聖 書 マルコによる福音書 14章32〜42節(p.92)
讃 美 歌 27、328(@C)、490、535、302(@B)、28
交読詩篇 詩編 22編25〜32節(p.28)
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。」(3:5)
1.《推し聖書》 本気で「聖書って面白いかも」と思えるようになるまで、随分と年月を要しました。初心者は4回もイエスさまの物語が繰り返されるのにウンザリします。四福音書の微妙な違い(視点や解釈や思想)が分からないと面白味が感じられないのです。「こう聖書に書いてある!」等と主張する人に限って、聖書の各文書の違いが分かっていません。グループアイドルのファンに、それぞれの「推し」があるように、自分の「推し聖句」等から入って行くのが良いでしょう。
2.《四福音書》 識字率が低かった近世以前には、四福音書も動物の象徴で示されました。マタイが人間、マルコが獅子、ルカが雄牛、ヨハネが鷲です。ヴェネツィア国際映画祭グランプリのトロフィーが獅子なのは、聖マルコがヴェネツィア市の守護聖人とされているからです。それぞれに翼を持っているので天使です。系図に始まるマタイが「人間キリスト」、旧約からの連続性を示し、マルコは「王なるキリスト」(『ナルニア国物語』!)、ルカが「生贄としてのキリスト」、ヨハネが「聖霊なるキリスト」を示しているとのことです。でも、それなら「福音書記者」が4つの動物で描かれるのは、何だかズレているように思います。
3.《喜怒哀楽》 古人は、人の心に湧き上がる様々な感情を「喜怒哀楽」と4つの感情に代表させて言いました。イエスさまも怒り、悲しんでいます。主が怒ったのは「会堂」という共同体で、同じ信仰の友であるべき「手の萎えた人」を、イエスさまを訴えるための罠に利用しようとしたことです。主が深く悲しんだのは、そんな彼らの「かたくなな心」(石のように硬くなった心)です。「心のかたくなさ/心の硬化」と対照的なのが、「手の萎えた人」を、イエスさまが「ストレッチ」されて回復したことです。礼拝や聖研で、出席者と聖書を読む時、牧師も本来そういう使命を与えられていると思います。固まった頭、固まった聖書の読み方を「解きほぐす、揉み解す」、そういう方向性を目指して行くべきでしょう。癒された人にとっては「喜と楽」が訪れますが、イエスさまにとっては十字架の苦難の道が始まるのです。せめて私たちは「我が心、石に非ず」と訴えましょう。
朝日研一朗牧師
聖句「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」(3:1,2)
1.《マカロニ》 私の小学校時代、イタリア製西部劇「マカロニウエスタン」が人気で、友だちは競い合うようにして、モデルガンやガンベルト、ライフル等を買っていました。そのせいか、「用心棒、ガンマン、無頼、一匹狼」「荒野の、夕陽の、さすらいの、情無用の、復讐の、怒りの」という語に反応します。私が牧師の道に進んだのも『ガンマン牧師』や『殺して祈れ』、『夕陽のガンマン』や『怒りの荒野』が影響を与えていたのかも知れません。聖書ネタが多いのです。
2.《世界の外》 私たちの家の近所には「荒れ野」「あら野」はありません。端的に言うと「荒れ野」とは「人の住んでいない場所」です。つまり、洗礼者ヨハネは「人の住んでいない場所」に出て行って「宣教」をしたのです。「宣教、伝道、布教」と言ったら、普通「人の住んでいる場所」で行なうものです。パウロ等は「都市」の「広場」等、人が大勢集まる場所で「街宣」をしています。ギリシア語の「世界/オイクーメネー」は「人の住んでいる場所」を意味します。洗礼者ヨハネは「世界の外」から「世界の内」にいる人たちに呼び掛けたのです。引用される「第二イザヤ」の預言もまた、大都会バビロンから荒れ野の旅への招きでした。
3.《悔い改め》 押川春浪や小栗虫太郎に『人外魔境』という秘境探険小説がありましたが、ヨハネは彼の描写からして「人外」です。アッシジのフランチェスコは小鳥や獣、魚や虫に説教をした伝説が有名ですが、現実には、彼の話を聞く人が誰もいない時、教皇庁から説教する資格を認可されなかった時代に、墓場で死者に説教をしたとも言われています。「人外境」から語ったヨハネに通じます。ヨハネがファリサイ派やサドカイ派を拒絶したのは、彼らが教師や祭司という肩書きや立場を捨てられず、悔い改めの業さえも自らの功績にして、神の御前に誇ろうとしたからでは無いでしょうか。それ故「悔い改めに値しない」と喝破しているのです。自らの言葉と行ないとの齟齬を全く自覚しない人、「自分は矛盾していない」と思い込んでいる人には、悔い改めのチャンスは訪れません。「私の後から来る方、イエスは、私よりも厳しい」と、ヨハネは告げています。
朝日研一朗牧師
聖句「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。/衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」(2:12,13)
1.《立ち帰る日》 教会暦は「灰の水曜日」から「受難節」に入りました。本来は「四旬節の初日」と呼ばれていた日が「灰の水曜日」の通り名で呼ばれるように成ったのは、前年に使用した棕櫚の枝を焼いた灰を信徒の額に塗る儀式が行なわれていたからです。灰は悔い改めの象徴でした。司祭が「キリストに立ち帰りなさい」と唱え、教会から長く離れていた者が入会し直したのです。「立ち帰る/シューブ」とは「放蕩息子の帰還」と同じく、親元への「帰郷」を意味しました。
2.《癒されない》 聖書の世界では、悲しみに打ちのめされた人が、自らの衣を引き裂き、髪の毛を剃り、灰の中に座し、断食しました。自傷行為が禁じられていた中でのギリギリの叫びでした。特に灰は無価値の象徴でした。悲しみのドン底で、私たちは自分の存在が無価値に思われるのです。孤独と疎外を感じて、胸が破れるのです。エルヴィス・プレスリーの「ハートブレーク・ホテル」も「寂しくて死んじゃいそうだよ」の呻きで終わります。ゲツセマネの「私は死ぬばかりに悲しい」というイエスさまの苦しみに通じるものがあります。「胸が張り裂けんばかり」という慣用句は「コーレーア・レーブ/心が引き裂かれる」に通じます。
3.《神の悔やみ》 心が引き裂かれた者、心が破れた者にしか、神さまの御声は届かないのかも知れません。悲しみが私たちを神さまの方へと導き、立ち帰らせてくれるのです。私たちの悲しみの心が神の御心と繋がるのは、神が「くだした災いを悔いられるから」なのです。人間が悔いる場合には「シューブ/立ち帰る」、神が悔いる場合には「ナーハム/心を変える」と、厳密に使い分けがされています。しかし、現代ヘブライ語では、同じ語根で「ニーハム/お悔やみを言う、慰める」という動詞が使われています。更に「主は思い直す」と続き、人間の場合と同じ「シューブ/立ち帰る」が用いられているのです。「全知全能の神、完全な神」という四角四面の教条主義、原理原則論を嘲笑うために、旧約聖書には、様々なトラップが用意されています。むしろ、神が全知全能ならば、失敗も自由自在、人の気持ちに成って悔い改めることさえも、恐れなく為さるのです。
朝日研一朗牧師