2022年04月26日

5月第1主日礼拝

       5月 1日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”教会の免疫力”    青木直人牧師
聖  書  使徒言行録 20章7〜12節(p.253)
讃 美 歌  27、340、490、120、452、29
交読詩篇  詩編 23編1〜6節(p.29)

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2022年04月25日

福音のためならなんでもする〜18歳と81歳のリアル【第一コリント9:19〜23】

以前、四国の松山教会に在任していました。松山教会は1885年に二宮邦次郎という牧師によって設立された教会です。実は二宮邦次郎牧師は1903年に行人坂教会の前身である日本組合教会京橋教会を設立した初代の牧師でもあります。二宮牧師が松山教会を創設した時代はキリスト教や教会に対する迫害の強い時代でした。松山での伝道は非常に困難でしたが、二宮牧師は果敢に伝道に取り組みます。しかし、二宮邦次郎の働きは牧師だけではなく、松山教会創設の翌年に女子のために四国で最初の高等学校を創立し、さらに貧困ゆえに学校にも行けず、昼間から街中でたむろしているこどもたちのために「夜間学校」を作り、職業教育を行ったのです。二宮は教会を建て、伝道だけではなく、当時の社会で片隅に置かれていた女性や学校にも行けなかった子供たちのための働きをしたのです。それらも福音の宣教であったのです。二宮邦次郎の口癖は「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかるためです」でした。

わたしは若い頃、しばらく大阪の浪花教会の副牧師でした。その時の主任牧師は三井久牧師で、「行人坂教会百年史」には「1947年4月、東大森教会牧師であった三井久牧師を行人坂教会の牧師として正式に招聘した」とあります。三井牧師は行人坂教会での3年間の牧会の後、浪花教会へ転任したのです。

三井牧師も教会内だけでなく、日本の教会には労働者がほとんどいないことを反省して、「関西労働者伝道」という活動を行い、責任者となっていました。教会はただ教会のために存在しているのではなく、神の造られたこの世界の中で社会の片隅に置かれている人々と共に生きることを主張していました。

行人坂教会はいま新しい牧師を招聘しようとしています。どのような牧師を招聘するのか、そして行人坂教会はいま世界が直面している現実(リアル)に対してどのようにイエス・キリストの福音を伝えていくのか、教会が建てられている近隣地域の課題をどう担って行くのか、それがいま問われているのではないでしょうか?

上林順一郎牧師

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2022年04月19日

4月第4主日礼拝

       4月 24日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”福音のためならどんなことでも〜18歳と81歳のリアル”    上林順一郎牧師
聖  書  コリントの信徒への手紙一 9章19〜23節(p.311)
讃 美 歌  27、328(@C)、490、335、451(@D)、516、28
交読詩篇  詩編 22編25〜32節(p.28)

posted by 行人坂教会 at 13:26 | 毎週の礼拝案内

新しい生命の希望【マルコ10:17〜31】

生命について聖書は様々に語ります。創世記のノアの洪水物語には、『“わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから”。こうして、人の一生は120年となった』とあります。人の生命は有限だという神の宣言です。ならば私たちは永遠に生きることをあきらめなければならないのか?

一方、興味深いことも語られています。悪を行う人間に神は心を痛め、人を造ったことを後悔して地上からなくそうとされますが、神に忠実なノアを見て、箱舟で彼と家族を救っています。神に忠実な者に救いの手が差し伸べられているのです。どうも神の前での人間の生き方がその人の生命の在り方に関係しているようです。

その深い意味はやがてイエスさまの口を通して明らかにされていきます。テキストでは、金持ちの男が『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか?』と尋ねています。この人は金持ちで、律法厳守の信仰生活を送りつつも「死んだら自分の存在は無くなるのか?」と悩んでいたのでしょう。イエスさまの答えは簡潔でした。『持っている物を売り払い、貧しい人々に施せ、それから私に従ってきなさい』。これは財産云々の問題ではなく、神に信頼する心の在り方の問題です。

弟子たちには『神の国に入るのは、何と難しいことか』と言われます。人間の弱さに対する憐れみ、悲しみが溢れています。財産や能力に頼る人間の弱さをイエスさまはじっと見つめておられます。『金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい』という言葉を聞けば、誰でも『それでは、だれが救われるのだろうか』となります。しかしイエスさまはこうも言われるのです。『人間にできることではないが、神にはできる』。私たちは神に祈ることができるのです。これは救いです。イエスさまは、人の存在は生物学的な死をもって一切が無になるのではない、ということを明らかにしてくれています。

死の不安から私たちを救ってくれるのは復活信仰です。愛する家族や多くの愛する人たちと永遠の命を受け継ぎたい、復活信仰にはその答えがあります。

秋葉正二牧師

posted by 行人坂教会 at 00:03 | 毎週の講壇から

2022年04月12日

4月第3主日礼拝(イースター)

       4月 17日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”新しい生命の希望”    秋葉正二牧師
聖  書  マルコによる福音書 10章17〜31節(p.81)
讃 美 歌  27、328(@C)、490、321、326、71、28
交読詩篇  詩編 22編25〜32節(p.28)

posted by 行人坂教会 at 16:20 | 毎週の礼拝案内

2022年04月11日

王が還ってこられる。柔和な方でろばに乗り【マタイ21:1〜11】

教会の暦で、レント(「受難節」からイースター(復活祭)そして、キリストの昇天に至る出来事は、人間にとっては、自分の内面での死と再生、苦しみから喜びへと、そして新しい次元、新しい世界の中で生きることに至るプロセスです。

しかし、その喜び、命の再生、新しい命に生きる解放の前に、傲慢に膨れ上がって真実を見失っている自分との対決、悔い改め、キリストの苦しみと十字架の死の共感、苦しみと絶望の中に思いもかけなかった希望と新しいものの見方の発見を体験する時期が必要になります。

キリストのエルサレム入場から受難、十字架の死へのプロセスは昔から「神のケノーシス」 つまり、神・キリストが次第に削られ、空しくされ、無力にされていくプロセスであるとされてきました。裏切られ、無力にされ、死に至り、葬り去られてしまった主に命が新しく注ぎ込まれ、復活をし、神の救済と愛の約束が実現をする。

マタイの福音書は旧約聖書の神の約束がイエス・キリストにおいて実現してくるのを証しする書物です。エルサレム入場の場面は、ゼカリヤ書9章9節の実現であるとされますが、ここで描かれている救い主・メシアは抑圧している敵を軍馬で押しつぶす報復の英雄ではなく、平和の王としてロバの子に乗り、柔和さと謙遜によって人の心と魂を治める方です。

力と富、自己保存のために自分以外のものの支配を求める人間への悪魔の荒れ野での誘惑に対する決定的な答えは、エルサレム入場から始まる神がへりくだられ、空しくされ、自らを犠牲にし、人と世界を生かす自己犠牲と和解の実現によって主の平和と祝福が起こって来る十字架にこそ見出されます。

藤崎義宣牧師(久が原教会)

posted by 行人坂教会 at 09:54 | 毎週の講壇から

2022年04月05日

4月第2主日礼拝(レント第6主日・棕梠の主日)

       4月 10日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”王が還ってこられる。柔和な方でろばに乗り”    藤崎義宣牧師(久が原教会)
聖  書  マタイによる福音書 21章1〜11節(p.39)
讃 美 歌  27、328(@C)、490、302、297、28
交読詩篇  詩編 22編25〜32節(p.28)

posted by 行人坂教会 at 20:49 | 毎週の礼拝案内

2022年04月04日

祈りから始める【マルコ14:32〜42】

主は受難を心底苦しまれました。普段なら一人で祈られるのに、ペトロら三人を共にされたほどです。長い時間、祈りを通してご自分の望みと神の御心とが一致するまで格闘されました。しかし心が決まって戻ってくると、直面するのは眠りこける弟子たちでした。それを見て主は「目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言い残し再び祈りに戻られました

▼この「心」は「霊」、「燃える」は「前進する」とも訳されます。霊が神の使命に向けて前進しようとしても、私たちの罪はそれに抗う。主はその相克を弟子たちに見、ご自分もその苦しみを経験してくださり、三度の祈りを経て「もうこれでいい(「支払い済み」の意)」とおっしゃいました。祈れない弟子たちの分も、主は執りなして祈られたということです

▼私たちは日々の行動について祈らずに済ませ、自分の力でどうにかしていると思っています。しかし「祈らない」のは、神の恵みを忘れ自分の力により頼んでいることになりかねません。そのような誘惑に陥らないために、また罪によって的外れの方向にならないように「祈っていなさい」と主は教えました。拙い祈り、間違えた祈りであっても、祈った方がよい。なぜなら祈り方を知らない私たちを神の霊が言葉に表せないうめきをもって執り成し(ローマ8:26)、自分の願望から次第に御心を尋ねる祈りへと導いてくださるからです

▼以前、旅先でたまたま出会った自衛隊高官の方が、子どもの頃に教会学校で「主の祈り」を教わり、やっと覚えられた時の嬉しさを話してくれました。そして、その後教会を離れそれきりなのに、人命がかかった重大な決断をする際に目をつぶると、必ず「天にまします我らの父よ・・」の祈りが湧き上がってくる、そして心がシンと静まり決断を下すのだと。霊の働きが具体的に迫ってくる思いがしました。主の執りなしの祈りは、今も私たちに生きて働いているのです

▼この受難節、主ご自身がどんなに祈りを必要とされたかを覚え、私たちも祈りを深める時としたいものです。行人坂教会がいよいよ新しい時を迎えようとする今、すべてを霊に明け渡して共に熱心に祈ることから始めましょう。

キスト岡崎さゆ里宣教師(RCA)

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の講壇から

2022年04月01日

お知らせ

朝日研一朗牧師は日本キリスト教団安中教会へ移られました。

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