2022年04月11日

王が還ってこられる。柔和な方でろばに乗り【マタイ21:1〜11】

教会の暦で、レント(「受難節」からイースター(復活祭)そして、キリストの昇天に至る出来事は、人間にとっては、自分の内面での死と再生、苦しみから喜びへと、そして新しい次元、新しい世界の中で生きることに至るプロセスです。

しかし、その喜び、命の再生、新しい命に生きる解放の前に、傲慢に膨れ上がって真実を見失っている自分との対決、悔い改め、キリストの苦しみと十字架の死の共感、苦しみと絶望の中に思いもかけなかった希望と新しいものの見方の発見を体験する時期が必要になります。

キリストのエルサレム入場から受難、十字架の死へのプロセスは昔から「神のケノーシス」 つまり、神・キリストが次第に削られ、空しくされ、無力にされていくプロセスであるとされてきました。裏切られ、無力にされ、死に至り、葬り去られてしまった主に命が新しく注ぎ込まれ、復活をし、神の救済と愛の約束が実現をする。

マタイの福音書は旧約聖書の神の約束がイエス・キリストにおいて実現してくるのを証しする書物です。エルサレム入場の場面は、ゼカリヤ書9章9節の実現であるとされますが、ここで描かれている救い主・メシアは抑圧している敵を軍馬で押しつぶす報復の英雄ではなく、平和の王としてロバの子に乗り、柔和さと謙遜によって人の心と魂を治める方です。

力と富、自己保存のために自分以外のものの支配を求める人間への悪魔の荒れ野での誘惑に対する決定的な答えは、エルサレム入場から始まる神がへりくだられ、空しくされ、自らを犠牲にし、人と世界を生かす自己犠牲と和解の実現によって主の平和と祝福が起こって来る十字架にこそ見出されます。

藤崎義宣牧師(久が原教会)

posted by 行人坂教会 at 09:54 | 毎週の講壇から