説 教 ”預言者と祭司” 塩谷直也牧師
聖 書 列王記上22:1〜9(旧約p.572)、使徒言行録1:8(新約p.213)
讃 美 歌 27、92、490、346、342(BC)、72、88
交読詩篇 詩編 122編1〜9節(p.146)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
「イエスはその木に向かって『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた。」マルコ11:14
イエスは実がなる季節ではなかったいちじくの木に実を期待します。しかも、実がなっていないことを知ると怒って木を枯らしてしまいます。「季節ではなかった」のですからいちじくの木に全く罪はありません。まさにここでのイエスは自己中であり、逆切れしてしまっています。
福音書は編集されている書物です。この不可解な誤解を与えかねないこの物語をカットしてしまってもよさそうなものです。聖書は古典です。何千年と揉まれてきた書物です。不思議な箇所がある場合あえて残されていると考え、そこにこそ大切なことが書かれていると思ってみるべきかもしれません。
同じ11章にヒントがたくさんあります。11章1節「棕梠の主日」の箇所で、民衆はイエスをローマ帝国をやっつけてくれる凱旋将軍のようにヒーローとして迎えますが、イエスはロバに乗ってやってきます。イエスに季節ではない期待をしていたのです。11章15節「宮清め」の箇所で、民衆はイエスを政治改革をしてくれるヒーローとして期待します。11章27節「権威についての問答」で、民衆はイエスを先代の悲劇のヒーロー、バプテスマのヨハネの再来ではないかと自己中にも期待します。しかし、イエスはそのようなこの世的なヒーローではありませんでした。そのことがわかると、民衆は逆切れしてイエスを殺します。十字架につけて殺します。わずか数日後にです。
そう、枯らされたいちじくの木は十字架でありイエス自身を指し示しています。この不思議な記事は、受難の物語を煮詰めて凝縮したものであると思います。もちろん私たちはいちじくの木を枯らしたことも、人を十字架につけて殺したこともありません。しかし、小さい意味での十字架…「自己中・逆切れ」を起こしてしまう場合があるのではないでしょうか。
伊藤義経牧師
過越祭の前、弟子たちが集められ、イエスが語られた場面であります。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」これは新しい掟として話されました。他にも多くの言葉を遺されますが、それは全て、イエスご自身がおられなくなった時の弟子たちへの備えとして語られたのでした。しかし弟子たちは、経験もない出来事を言われ、何がどうなるのかさっぱりわからない様子であったため、イエスは「言いたいことはまだたくさんあるが、今あなたがたには理解できない」と述べるに至ります。
本日の聖書箇所である16章では、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と言われます。弟子たちは、「見ないようになるが、またしばらくすると見るようになる」とはいったいどういうことか?と議論をはじめます。目の前でイエスを体験し、長く共に過ごした弟子でさえ、迷い悩むのです。むしろ現実に見ていたからこそ、目の前のこの姿が全てであったのかもしれません。私たちはその後の展開も聖書を読み知っています。しかし何度礼拝説教を聞き、聖書研究会で学んでも、主観的な受け止めであったり、覚えているのは一部分であったりします。やはり人間は、繰り返し神の言葉に出会う瞬間が必要なのだと思います。なぜなら、人間は忘れる存在だからです。そして理解の中心が自分になってしまいがちです。「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。互いに愛し合いなさい。」というイエスの言葉を知っています。それでも「神よ」と祈りながら、人と人との間で、神による愛を分かち合えず、どこかで人を裁いている自分がいるのではないかと、わたしたちは自分自身をよく見極める必要があります。
神が、苦しみを味わうことを知っていながらもイエスを送り、私たちを愛し、今も聖霊というかたちで無条件につながってくださることを心に刻みながら、互いに助け合い、祈りつつ、神に何度でも問い続け、喜びで満たされる日を求めて生きたいと願っています。
岡崎菜佳子牧師
人の一生は過去と現在と未来から成っています。黙示録記者は神を『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』と表現しました。終末論を土台にした発想です。人の生き方は過去や未来に影響を受けます。過去の本当に嬉しかった思い出は現在を支える力です。思い出したくない過去もあり、人には言えない罪深い記憶に苦しめば人生は灰色です。次に未来。順風満帆な時の未来は可能性を無限に感じますが、そうでない時の未来は不安や絶望です。人は歳と共に能力や体力が衰えていきます。すると未来は不安の種になります。過去の悔いや未来への不安は時折悪魔のように来襲し、現在の自分から生きる力を奪って行きます。
黙示録の背景はローマ帝国の激しい弾圧です。その状況下、アジア州の七つの教会のことを記者は心配しています。彼は『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』と神を捉えました。今おられる神―イエス・キリストこそ私の神そのものですという宣言です。神はこの私の罪を恵みで許し、平安で包んでくださるという信仰告白です。かつておられた神―自分を祝福する神は過去も支配された神だという認識です。神は自分の過去の失敗や悲しみを拭い取り、罪を赦し、支配された方です。辛かった過去の日々を“どうぞ忘れさせてください”と祈ることのできる神でもあります。やがて来られる神―これはあらゆる未来が神のみ手の中にあるという意味です。それを信仰により理解できた時、私たちの存在は希望に変わります。
教会群のリーダーだった黙示録の記者は晩年パトモス島に流されました。過酷な条件下で、彼は主イエス・キリストの霊を与えられ、勝利者キリストの幻を見て黙示録を書き記しましたが、それこそ聖霊の働きです。教会はこの世で微力ですが、神に自由に用いられ希望の光を証しすることは、私たちキリスト者の誇りです。
秋葉正二牧師
言葉はコミュニケーションを図る上で便利ですが、時に人を殺す力も持ちます。教会暦ではイースターからペンテコステへ、つまり神を信じる一人一人に語る言葉が与えられる季節へ向かうのですが、今日は神の言葉に注目します。
今日の箇所はイエスが誘惑を受ける場面で、言葉について考えさせます。「道を外させる者」という意味の悪魔は、神の道から踏み外させる誘惑を3つ試みます。今日はその最初の誘惑です。空腹を覚えるイエスに「神に頼み、石をパンに変えてもらえ」と迫るのです。自分が変わるのではなく、自分の都合に合わせて神を変える誘惑です。この誘惑に対してイエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の言葉によって生きる」と答えました。
「人は神の言葉によって生きる」。この発言の根底にはユダヤ教の世界観、特に創世記に描かれた神の言葉への理解があります。創造物語は「地は混沌で、闇が深淵のおもて」と暗闇とカオスの状態に始まり、そこに「光あれ」と神の宣言が差し込みます。この1章の創造物語はバビロン捕囚時代に今のような形に編纂されたと言われます。古代イスラエルが新バビロニア帝国に戦争に負け、多くの人が奴隷として外国に囚われた時代。自由も出口もない抑圧と差別こそが、その当時の現実(混沌と闇)だったのです。
聖書は、その絶望と闇の中で神は言葉を投げかけ、光となってくださったと語ります。創世記において神の言葉は、闇の中で様々な存在を「命あるもの」として浮かび上がらせていきます。混沌や闇の中で見えなくなっているものたちの名を呼び、存在を確認するのです。そしてこの言葉の力をイエスは体験的に知っていました。イエスはこの誘惑直前に洗礼を受けました。その時イエスは「これはわたしの愛する子」という神の語りかけを受け、この言葉と共に試練の場に臨んでいます。「神の言葉、愛が人を生かす」これがイエスの実感であり、信念なのです。
神はわたしたちに語りかけることで、この存在に触れ、共に生きている事実に導きます。そのような言葉を神から受けているのです。さらに言えば、今度はその愛の言葉をわたしたちが他者に扱うように信じられ、託されているのです。
佐原光児牧師
使徒言行録を読んでいると、エウティコ青年のエピソードにほっとさせられる。トロアスという港町に形成されていた教会の成熟した信仰が、共同体の一つの在り方を示唆してくれているからだろう。パウロの説教中に眠りこけて、窓から転落してしまったこの愛すべき青年に対して、彼らは咎めはしなかった。物語は「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」と結ばれる。「エウティコ」とは幸いな男――幸男くんという意味の名。まじめで一途でみんなに愛された青年。しかしときにとんでもないドジをやらかしてくれる青年。そんなエウティコが生きてあることが、教会の恥ではなく、皆の慰めであるような人々の集まり。この教会の芒洋としたおおらかさを見ていると、信仰共同体がどうすればほんとうの意味で強い集団になれるのかというヒントを与えてくれているように思う。
かつて食品への異物混入が世間を騒がせた時、養老孟司は異物混入を嫌悪する日本人の異常さを指摘していった。「もしきたないものを徹底的に嫌うとすれば、自分のなかにある汚れたものを、一切否定することになる。ところが人間は自分のなかにさまざまなきたないものを抱え込んでいる。したがって不潔をあまりに嫌う態度は、結局は自分との折り合いをつかなくしてしまう」。共同体も同じこと。極端な潔癖主義、純粋志向は、集団を弱体化させてしまう。異質なものを排除するのではなく、多少のことは大目にみて、大人の度量を示せる集団。多少ずっこけた青年がいても、むしろいのちがあって、皆が一緒にいられることを慰めと感じることのできる人々。初代教会はこうやって、共同体として時代を生き抜いてゆく高い免疫力をつけていったのではないか。それは、すでにイエスの思想の中に、時代の制約からくる排他性を乗り越えようとする可能性が内包されていたからこそ、そういった懐の深さが教会のなかに育っていたのだろう。
人間は誰一人同じではない。一人ひとりが皆違った存在だ。その私たちが、互いに異質なものを提供しあい、受け入れ合うことで、教会が時代に対する免疫力を高めてゆく――それこそが「聖徒の交わり」といえるのではないか。
青木直人牧師