2022年05月02日

教会の免疫力【使徒20:7〜12】

使徒言行録を読んでいると、エウティコ青年のエピソードにほっとさせられる。トロアスという港町に形成されていた教会の成熟した信仰が、共同体の一つの在り方を示唆してくれているからだろう。パウロの説教中に眠りこけて、窓から転落してしまったこの愛すべき青年に対して、彼らは咎めはしなかった。物語は「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」と結ばれる。「エウティコ」とは幸いな男――幸男くんという意味の名。まじめで一途でみんなに愛された青年。しかしときにとんでもないドジをやらかしてくれる青年。そんなエウティコが生きてあることが、教会の恥ではなく、皆の慰めであるような人々の集まり。この教会の芒洋としたおおらかさを見ていると、信仰共同体がどうすればほんとうの意味で強い集団になれるのかというヒントを与えてくれているように思う。

かつて食品への異物混入が世間を騒がせた時、養老孟司は異物混入を嫌悪する日本人の異常さを指摘していった。「もしきたないものを徹底的に嫌うとすれば、自分のなかにある汚れたものを、一切否定することになる。ところが人間は自分のなかにさまざまなきたないものを抱え込んでいる。したがって不潔をあまりに嫌う態度は、結局は自分との折り合いをつかなくしてしまう」。共同体も同じこと。極端な潔癖主義、純粋志向は、集団を弱体化させてしまう。異質なものを排除するのではなく、多少のことは大目にみて、大人の度量を示せる集団。多少ずっこけた青年がいても、むしろいのちがあって、皆が一緒にいられることを慰めと感じることのできる人々。初代教会はこうやって、共同体として時代を生き抜いてゆく高い免疫力をつけていったのではないか。それは、すでにイエスの思想の中に、時代の制約からくる排他性を乗り越えようとする可能性が内包されていたからこそ、そういった懐の深さが教会のなかに育っていたのだろう。

人間は誰一人同じではない。一人ひとりが皆違った存在だ。その私たちが、互いに異質なものを提供しあい、受け入れ合うことで、教会が時代に対する免疫力を高めてゆく――それこそが「聖徒の交わり」といえるのではないか。

青木直人牧師

posted by 行人坂教会 at 19:09 | 毎週の講壇から