説 教 ”「今日のジャム」を味わう教会” 岡田仁牧師
聖 書 マタイによる福音書6:25〜34(新約p.10)
讃 美 歌 27、126、490、463、425(@C)、89
交読詩篇 詩篇33:4〜11(p.38)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
北海道の遠軽という町に「北海道家庭学校」という施設があります。ここはいろいろな事情で家庭にいることができないで子どもたちが家族のように一緒に生活しながら、人間としての学びを行う場所です。ここにいるこどもたちはそれぞれに重荷を背負って生きてきた子供たちです。その子どもたちの重荷をともに背負って生活をしていた校長の谷昌恒さんは『ひとむれ』(群羊社)という本の中で次のように書いています。
「大きな荷物一つ肩に担ぐと重いのです。振り分けるか、天秤棒の二つの荷物は軽いのです。自分は、自分のことだけで精いっぱいだ、人のことなど構っていられない、そんな風に考え、自分一人の荷物にしがみついていると、荷物はずっしり重いのです。あの人は自分のことだけで、大変なはずだと、そう思われている人が多くの人の心配事を担い、力を貸し、共に労を分かち合っている。本人は平気な顔をして、他人の重荷を担っている。他人の荷物を負っていることで、気が張るのか、責任を感じるのか、確かに荷物は一つより二つのほうが軽いのです」
コロナの感染が収まりません。その中にあって私たちもいろいろな重荷を背負って生きています。しかし自分の重荷だけで苦しんでいるのが事実でしょう。他人の重荷のことなど考えておられないと、自分の重荷だけをふうふう言いながら背負って生活しているのです。
谷さんはこう書いています。「荷物が一つより、二つの方が軽いのは、いつの間にか神様が背後から近づいてきて、そっとその荷物を支えてくださるからだと思うのです。多くの人の荷物を背負って苦闘している人、きっと神様が一緒になってその荷物を背負ってくださっているのです。だから軽く感じるのです」
自分の重荷だけでなく、他人の重荷を一緒に背負っていくとき、自分の重荷も軽くなっていくのです。荷物は一つより二つの方が軽いのです。神が後ろから私たちの荷物をそっと担いで下さっているからです。
上林順一郎牧師
ゼカリヤ書の時代背景は紀元前6世紀のバビロン捕囚からの帰国です。預言の場所はエルサレム。テキストはゼカリヤが見た5番目の幻で、根底には神殿再建への願いがあります。幻の内容は金の燭台。その解釈をめぐりゼカリヤと御使いとの間のやりとりが続きます。そこにゼルバベルという名前の人物が登場します。彼は大祭司ヨシュアと共に、バビロン捕囚から解放されてイスラエルの民が故国へ帰還する際先頭に立った人物で、神殿を再建しました。
6節には『これがゼルバベルに向けた主の言葉である』とあります。それは神殿再建事業に関する神さまの言葉でした。曰く、『武力によらず、権力によらず ただわが霊によって……』。ここを読んでいて私はロシア-ウクライナ戦争を思い浮かべました。古代の記事を現代の事象にすぐに結びつけるのは注意が必要ですが、私の中で今行われている戦争につながったのです。
神殿を再建する意味とは何でしょうか。捕囚から帰還してみたら、目の前にあるのは神殿の残骸です。幸いにもイスラエルの民はエルサレムに戻ることができましたが、神殿を再建しようとすれば、かつての戦争が思い出されるのです。新しく建てられる神殿がどういう目的で機能し始めるかは、これからのイスラエル民族の在り方に関わります。預言者ゼカリヤはゼルバベルに向けられた主の言葉として、はっきり『武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって』という声を聞き取っています。神殿は神さまに礼拝を捧げる場所です。そういう場所をこれからどのように位置付けるのか、その答えを神さまは預言者に賜ったのです。武力や権力が神殿の中にはびこれば、新しい神殿もいずれ瓦礫となることを神の声としてゼカリヤは受けとめました。
神さまと預言者とのやりとりを単なる昔の一出来事として聞き流すのではなく、私たちは自分に関わることとして、すなわち私たちの現実の中で、神さまの声として聞き取る必要があるのではないでしょうか。日本の平和憲法は、単にユートピア的理想でも、時代の要請に応えられなくなった過去の遺物でもなく、日本が歩むべき未来に対し、極めて現実的な指針であると私は思います。預言者が『武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって』という言葉をどんな気持ちで受けとめたか、私たちには想像する責任があります。世界の紛争・戦争地域に平和が回復されるよう祈りましょう
秋葉正二牧師
「人生は旅である」と言われます。『おくのほそ道』は「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」で始まります。松尾芭蕉は、私たちの毎日の生活そのものが旅であると言いました。
ヘブライ人への手紙11章は、信仰がテーマです。信仰を抱いて死んだ、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ…。 彼らは約束されたものを手に入れられませんでしたが、自分たちがこの地上では「旅人であり寄留者(よそ者であり、仮住まいの者)」と告白し「天のふるさと」を熱望した、と書かれています。
あなたは、旅行の時に何を持っていきますか?
旅慣れている人は必要なものを最小限だけ携えていて持ち物が少ないようです。私たちの人生という旅でも、余計な荷物を捨てられなかったり、大切なものを忘れ物したりします。たとえば、過去にひきずられたり、未来を心配したり、妬みや悲しみ、怒りの感情を拭いきれないことがあります。しかし、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ・・・。聖書に出てくる信仰の先輩たちが私たちを囲んで応援してくれています。大切なもの(信仰・希望・愛)を携えて、軽やかに人生の旅を続けられたらと願っています。
私たちの旅の目的地は「天のふるさと」です。唱歌ふるさとは、日本の美しいふるさとへの郷愁の念を歌った歌と一般的にされていますが、実は聖書的な要素が入っています(唱歌「ふるさと」の作曲者・岡野貞一は敬虔なクリスチャンであり、「ふるさと」のメロディーは讃美歌の影響を受けていると言われています)。 私の命の恩人の100歳現役クリスチャン医師・駿河敬次郎先生は、唱歌「ふるさと」を好んで歌います。駿河先生が唱歌ふるさとを「志を果たして、いつの日にか帰らん」と歌っている時、ご自分の故郷・金沢だけでなく「天のふるさ」との情景を思い浮かべているようです。
人生は旅です。この旅において、外なる人は衰えていきます。しかし内なる人は新しくなっていきます。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言ってくださるイエス・キリストが私たちの内におられ、一緒に旅をしてくださります。 そして、私たちの旅の終着点は「天のふるさと」です。そこは、地上よりさらにまさった場であり、死も悲しみも嘆きも労苦もないところです。その「天のふるさと」に、いつの日にか帰らん。その希望を胸に抱きながら、私達も「地上の旅路」を心軽やかに前に進もうではありませんか。
関智征牧師