2022年08月31日

9月第1主日礼拝(聖霊降臨節第14主日)

       9月 4日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”どもだちである前に”    塩谷直也牧師
聖  書  ルカによる福音書10:25〜37(新約p.126)
讃 美 歌  27、31、490、432、421(日本語)、25
交読詩篇  詩篇40:1〜12(p.48)

posted by 行人坂教会 at 20:50 | 毎週の礼拝案内

闇の中の大いなる光【イザヤ書9:1〜6】

ヘブライ語の平和は「シャローム」ですが、聖書のシャロームはただ単に戦争がないことを意味する言葉ではなく、共同体の中に祝福が満ち、そこに生きる人々の間に調和がある状態です。ロシアはこの二月隣国ウクライナへ武力侵攻を始めました。軍備で周囲の敵を打ち負かして得られる平和は、本来のシャロームではありません。今、この戦争によって世界の国々が揺れています。日本でも早速軍備費増額の動きが出ました。軍事費の増額で日本はどんな国になるのか、よく吟味しなければなりません。

民主国家では、国の法律を決めるのは国民ですから、国の在り方への責任を負うのも私たち自身です。テキストでは預言者イザヤがメシア的王の誕生を謳い上げていますが、彼が想起したシャロームの世界は、苦悩する現実の中から生まれました。紀元前8世紀は大国アッシリアにイスラエルが翻弄された時代です。北王国を滅ぼしたアッシリアは占領地を属州として再編し、住民の強制移住や外国人の入植政策を行いました。結果、人種も宗教も文化も混合状態となり、南王国から見るとかつての北王国はまぎれもない異邦人の地に見えたことでしょう。「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたのは、これを蔑んだ表現です。人種や宗教が混合状態になった世界を皆さんイメージできますか。

聖書には自由や人権のルーツがありますが、その流れは日本では理解され難いようです。日本の政治手法では、国家間に何か歴史的問題があった時、水に流してと発想しますが、これは国境が時代と共に動いてきたような歴史をかかえる国々にしてみれば、簡単に水に流すことなどできないでしょう。先の大戦後、ドイツの首相アデナウアーはポーランドの民衆にひざまずいてナチスの非道を謝罪しましたが、彼のような人物は戦後日本の政治的リーダーにはおりません。口先だけの謝罪はすぐにばれます。悔い改めは、信仰生活上の大切な要素ですが、イエスさまはこのことに関して大切なことを教えてくださいました。復讐の禁止や愛敵の教えです。私たちが平和を考える場合、悔い改めは現実世界でも欠くことのできない行動原理です。

王や王国はやがて消えますが、イエスさまは永遠なる「平和の君」として現れ、強大な軍事帝国の力の前に、十字架刑によって光となられました。私たちは力による平和の維持という考え方の限界を、この平和の君が残された言葉の中に見出そうと思います。

秋葉正二牧師

posted by 行人坂教会 at 20:46 | 毎週の講壇から

2022年08月23日

8月第4主日礼拝(聖霊降臨節第13主日)

       8月 28日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”闇の中の大いなる光”    秋葉正二牧師
聖  書  イザヤ書9:1〜6(新約p.1073)
讃 美 歌  27、429(@B)、490、523、561、24
交読詩篇  詩篇13:1〜6(p.18)

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2022年08月22日

思い起こす度に【フィリピ1:3〜11】

著者のパウロはある喜び、安堵感に浸っているのです。《あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています》。フィリピの信徒たちを思い出すと感謝であり、喜びだということなのです。この手紙は獄中で書かれています。だからパウロは相当に精神的なダメージを与えられているのです。しかし、その状況にあっても、フィリピの教会のために祈るならば、慰められる、喜びが沸いてくる、と言うのです。パウロと諸教会という括りで考える時、パウロが慰める、励ます、戒めるというイメージがあります。しかし、ここでは驚くことに教会の方がパウロを慰めているのです。

教会は人間が作ったものではありません。集まる一人ひとりは弱い部分を持っていますが、神が集めてくださった共同体なのです。パウロはその教会の一人ひとり思い浮かべて、慰められているのです。

それは現代の教会も同じだと思うのです。パウロからするとハラハラドキドキさせるような者の集まりなのです。しかし、それでも、教会という存在はパウロさえ、慰める力を持っているということです。使徒信条の中に「聖なる公同の教会(中略)を信ず」という言葉があります。教会を信じるというのは、少し変な感じがします。なぜならば教会は間違いを冒しそうな、いや、時には実際に間違いを冒す弱い私たちの集まりでしかありません。なのにそんな教会を信じる、と言っているのです。それは正に教会が神によって建てられたもの、そこに神の強い意志があるということを信じる、ということなんじゃないでしょうか。

教会は私たちが信仰生活を続けるために神が建ててくださったものです。神の意志があるわけですから混沌とした現代社会を慰める力も秘めているのではないでしょうか。改めて教会があることの恵みに思いを馳せ、招かれ、用いられていることに感謝をしたいと思います。

岡崎岳牧師

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2022年08月16日

8月第3主日礼拝

       8月 21日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”思い起こす度に”    岡崎岳牧師
聖  書  フィリピの信徒への手紙1:3〜11(新約p.361)
讃 美 歌  27、429(@B)、490、544、394、24
交読詩篇  詩篇13:1〜6(p.18)

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2022年08月15日

GOD IS LOVE【第一コリント13:1〜13】

「GOD IS LOVE」この言葉は、僕に洗礼を授けてくださったHJベーケン牧師からいただいた言葉です。

僕は日本の一般的な家庭に生まれ、「お盆」もあれば、「初詣」も「クリスマス」もある、いわゆる日本的ごった煮の文化の中で育ちました。 そんな中でも僕は、お盆って何?初詣ってなんで行くの?クリスマスは?仏さまと神さまは仲がいいの?と色々と母親を質問攻めにし、困らせ、納得ができないと前に進めない少年でした。  僕のようなマセた少年が聴く音楽は日本の歌謡曲やポップスではなく、もちろん洋楽です。 アーティストのミュージックビデオやライブの演出、歌詞の内容の中に、信仰に関するものが多くあることに気がつき、興味を持ち始めたのは自然の流れであったと今は思います。

僕が16歳の時、2歳年上の兄が自分で自分の命を絶つという大きな出来事がありました。 兄の死をきっかけにして、宗教や信仰についてより興味を持つ事になりました。

22歳で渡英し、ロンドンでの生活の中で、信仰的な教養のなさ故の失敗や、様々な人種差別行為などの経験を経て、僕自身の視野も広がり知識も増えました。 やはり絶対的に違うと思ったのは、心の拠り所や言葉だけでない「共通するもの」を自分が持っていないことでした。 ある時、フランス人の友人から「教会に行ってみたら?絶対的に信じることができるものがあるのはいいことだよ。色々と考えるきっかけになるかもね」と軽く言われ、そこから僕は色々な教会の礼拝に参加するようになりました。  イギリスで行っていた教会に集う人たちは人種も生活水準もバラバラなのに、一つとなって見えたのが僕には不思議に思えました。「どんなにお金持ちでも、貧乏人でも神さまの前では同じ」ということを肌で感じ、1000年以上も人々に大切にされてきた「聖書」にすごいパワーと魅力を感じるようになり、キリスト教についてや信仰について、他の宗教についてたくさんの本を読み、学びました。 そして、ポップスターの歌詞や過激な演出の本当の意味や、なぜ問題となるのか理解できるようになりました。 表現する側、受け止める側の両方の気持ちがわかったのです。

僕自身のこれまでのことを「信仰」というキーワードで振り返ると、僕の近くにはいつも神さまがいて、神さまを信じている人の「愛」があったのではないかと感じています。 「愛」という名のもとに、自分の世界観や感情、価値観を押し付けてしまうことは、残念なことに、私たち人間にはよくあることです。 理由は大概、「それが正しいから」「ずっとそうしてきたから」「一般的だから」「皆がそうしているから」です。 自身の意見が正しく、相手が間違っているという善悪二元論を持ち出すことは、果たして本当の「愛」なのでしょうか? 相手を変えるのは難しい。変わるのは自分。 それは、相手の心に寄り添い、理解しようとし、視点を変えることです。 そうすることによって、個人個人違った向き合い方ができると思います。 全て違い、全て同じではないのです。

今日の聖書箇所として選んだコリントの信徒への手紙13章は「愛について」書かれている、とても有名な章です。 その最後13節には「それゆえ信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」とあります。 私たちが日々すべきことは、相手を理解することや、理解しようと努力することなのだと思います。 そしてその違いを受け入れ、尊重し、共に生きていくことなのではないでしょうか。 それが「愛」なのではないかと僕は思います。 「GOD IS LOVE」愛のあるところに神さまがいる。 僕はこれからもこの言葉を胸に信仰生活を送っていきたいと思います。

岩崎覚牧師

posted by 行人坂教会 at 17:15 | 毎週の講壇から

2022年08月09日

8月第2主日礼拝(聖霊降臨節第11主日)

       8月 14日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”GOD IS LOVE”    岩崎覚牧師
聖  書  コリントの信徒への手紙13:1〜13(新約p.317)
讃 美 歌  27、429(@B)、490、531、483、24
交読詩篇  詩篇13:1〜6(p.18)

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2022年08月08日

神の大きな働きかけ【エフェソ1:15〜23】

これは祈りの言葉です。この手紙はアジア州の諸教会に回覧されたと言われますから、この祈りはエ フェソ教会だけでなく手紙を読む全ての教会への祈りです。その内容は、神が私たちの心の目を開いて くださるように、どのような希望が与えられているかを悟らせてくださるように、また、私たちに働き かける神の力がどれほど大きなものであるかを知ることができるようにという3点です。

「どうか…栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができ るようにし、心の目を開いてくださるように。」神を深く知ることができるのは神の働きかけによりま す。私たちの努力や熱心によるのではなく、ただ神から霊が注がれ、神を深く知ることができるように なります。礼拝をささげていること自体が神の働きかけです。神によって招かれ、聖霊を受けて神を礼 拝する者へと変えられた。賛美と祈り、御言葉を通して神を知り、祝福と共に生活の場に遣わされます 。

この時、私たちに与えられている希望をも知ります。それは、主イエスの勝利です。神は十字架にか かって死んだ主をよみがえらせ、御自分の右の座に着かせました。すべての支配や勢力が、主の支配下 に置かれました。だから、私たちもこの勝利にあずかります。現代は長引く戦争や新型コロナウイルス により、希望の見えない時代です。しかし、私たちはキリストの勝利を約束され、この罪の世界も救い に向かって進んでいます。私たちの行く手には希望があります。

神の働きかけはすでに起こり、これからも続きます。イエスさまを復活させた神は、その力を私たち にも働かせ、私たちを罪から救われました。主の体なる教会に連なる者とし、日々成長させてください ます。教会は、罪と死に打ち勝ち、希望を与える神の力に満たされ、試練にある今も成長を続けます。神 が共にいて、働きかけてくださるからです。不安が渦巻く今だからこそ、教会は真の希望を語り続ける 責任があります。神の働きかけを信じて、その力に委ねていきましょう。

大塚啓子牧師

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2022年08月02日

8月第1主日礼拝

       8月 7日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”神の大きな働きかけ”    大塚啓子牧師
聖  書  エフェソの信徒への手紙1:15〜23(新約p.352)
讃 美 歌  27、429(@B)、490、495、452、24
交読詩篇  詩篇13:1〜16(p.18)

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2022年08月01日

「今日のジャム」を味わう教会【マタイ6:25〜34】

「規則では、明日のジャムと昨日のジャムはあるけど、今日のジャムというものはないんだよ」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)。

昨日のジャムも明日のジャムも実際に今この瞬間に口に入れて味わうことはできません。では、今日のジャムはどうすれば手に入るのでしょうか。今日のジャムを味わう生き方、それは「いま・ここ」にある自分の命の状態に気づく生き方、ということなのかもしれません。神から生命を与えられ祝福されて今ここに存在している私と誠実に向き合うということです。自分の命の姿に目を留めて小さな変化に気づく生き方は、命の源なる神とつながる生き方へと向かっていくのです。

鳥や花は被造物としての限界領域において一線を越えることがありません。むしろ、満ち足りた姿で大空を飛び、野に咲き乱れています。自らに与えられた力をやさしく発揮している、その謙虚な姿をよくみなさい、と主イエスは語ります。

「明日のことは明日自らが思い悩む」のであって、「その日の苦労は、その日だけで十分である」。そうであるにもかかわらず、わたしたち人間は、明日のことを神に委ねようとはせず、自分でその責任をどこまでも負おうとするのです。

中世の修道院では、「メメントモリ」(汝自身の死を知れ)が日常の挨拶としてかわされていました。死は、全てを支配される神の領域です。自分自身の死を覚えるとは、命も死もすべてを支配されている神に信頼し、「いま、ここに」与えられている命を各自が精一杯生きなさいということです。明日のことは人間の手に届かない領域だから、愛の神に委ねて、今この時を生きよ、と。

神を神として畏れず、命への畏敬の念をもたない人間の罪、傲慢さを思います。神からいただいた贈り物として一瞬一瞬を真摯に謙虚に受け止める姿勢。主イエスは、全てのことに対してご自分の存在すべてをかけて向き合い、「むさぼりの罪」に打ち克つ道を示されました。どんなに小さな存在に対しても主は御手の中に置いて守り養って下さるのです。この愛の神の約束とお導きに信頼し、自然の営みに深く学びながら歩ませていただきたいと願います。

岡田仁牧師

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