2022年08月01日

「今日のジャム」を味わう教会【マタイ6:25〜34】

「規則では、明日のジャムと昨日のジャムはあるけど、今日のジャムというものはないんだよ」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)。

昨日のジャムも明日のジャムも実際に今この瞬間に口に入れて味わうことはできません。では、今日のジャムはどうすれば手に入るのでしょうか。今日のジャムを味わう生き方、それは「いま・ここ」にある自分の命の状態に気づく生き方、ということなのかもしれません。神から生命を与えられ祝福されて今ここに存在している私と誠実に向き合うということです。自分の命の姿に目を留めて小さな変化に気づく生き方は、命の源なる神とつながる生き方へと向かっていくのです。

鳥や花は被造物としての限界領域において一線を越えることがありません。むしろ、満ち足りた姿で大空を飛び、野に咲き乱れています。自らに与えられた力をやさしく発揮している、その謙虚な姿をよくみなさい、と主イエスは語ります。

「明日のことは明日自らが思い悩む」のであって、「その日の苦労は、その日だけで十分である」。そうであるにもかかわらず、わたしたち人間は、明日のことを神に委ねようとはせず、自分でその責任をどこまでも負おうとするのです。

中世の修道院では、「メメントモリ」(汝自身の死を知れ)が日常の挨拶としてかわされていました。死は、全てを支配される神の領域です。自分自身の死を覚えるとは、命も死もすべてを支配されている神に信頼し、「いま、ここに」与えられている命を各自が精一杯生きなさいということです。明日のことは人間の手に届かない領域だから、愛の神に委ねて、今この時を生きよ、と。

神を神として畏れず、命への畏敬の念をもたない人間の罪、傲慢さを思います。神からいただいた贈り物として一瞬一瞬を真摯に謙虚に受け止める姿勢。主イエスは、全てのことに対してご自分の存在すべてをかけて向き合い、「むさぼりの罪」に打ち克つ道を示されました。どんなに小さな存在に対しても主は御手の中に置いて守り養って下さるのです。この愛の神の約束とお導きに信頼し、自然の営みに深く学びながら歩ませていただきたいと願います。

岡田仁牧師

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の講壇から