説 教 ”聖書を土台に生きる ” キスト岡崎エイブラハム宣教師
聖 書 マタイによる福音書7:24〜29(新約p.12)
讃 美 歌 27、416、490、423、395、26
交読詩篇 詩篇96:1〜9(p.110)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
財産を失い、子どもたちを失い、自身の健康までも失った苦難の人ヨブ。そんな彼を励ますために、三人の友人が彼の元を訪れます。全身を皮膚病に覆われ、見る影も無くなった彼の元を訪れたわけですから、彼のことを心から心配していたのは想像に難くありません。友人たちはなんとかヨブを苦しみから救おうとします。その彼らは、ヨブに悔い改めと、神に立ち返ることを求めます。きっとこの時は、ヨブにとって苦しいものであったことでしょう。心許せる友人と、身に覚えのない自身の罪について議論しなければならなかったのですから。しかし、友人との議論を経て、ヨブはあることに気づいていくのです。それは、今私たちが知りうる知恵、説明できる常識では、自分が置かれている状況は決して説明することはできないということでした。
ヨブにとって、友人との議論はとても辛いものでした。しかし彼は、友人たちとの議論を経て、自身の苦難が、この世の知識では到底説明できないことを悟りました。その友人たちがいなければ、この世の知恵の在処は神にしかない、という確信には至れなかったでしょうし、これほどの深い肉体的な苦しみや、絶望の中、神の守りがなければ彼は生きていくことができなかったに違いないのです。自分の想像を超えて現れた神の業をヨブは経験しました。この世の出来事の理由を明らかにすることが知恵を得ることではない、その中に、生きていく希望があるのではない。主を畏れ、主を信頼すること、そこにこそこの神の知恵と希望はあると確信するのです。苦難の中で、彼は自分がそこへと導かれたのです。
神を根拠として、この世を見る。苦しみの意味を考え、祈り求めていく。その中にこそ、救いは存在しています。ヨブがこの世界に希望を見、この世を生きる決心をしたように、私たちも生きていく希望と、救いを捉えるのです。そして、苦しみの中にも確かに存在する神の御手を、人間の思いを超えて存在する神の知恵を捉える時、私たちは自身を神に委ねて生きていこうと思えるのです。ヨブがなしたように、私たちも、神に祈り問いながらこの世を生きて参りましょう。
島田直牧師
招聘委員会の公募に、3人の先生が応募してくださいました。面談を通じて、先生方は行人坂教会に寄せる真剣な思いを語ってくださいました。私は戦争の危機について質問しました。もし教会員が戦地に赴くことになったら、何と声をかけられますかと。先生方はいずれも、そのときには兵士として行かねばならない人にきちんと向き合うとおっしゃってくださいました。
「殺してはならない」、モーセに与えられた十戒の第六戒に条件はありません。無条件の神の命令です。
アジア太平洋戦争中、学徒出陣で中国河北省の部隊に配属された渡部良三さんという方がおられました。内村鑑三の流れを汲む無教会の方です。彼は捕虜を銃剣で刺し殺す演習に直面し、その瞬間が来たとき、「自分にはできません」と銃剣を上官に返しました。このときのことを彼は短歌に残しています。
鳴りとよむ 大いなる者の 声きこゆ 「虐殺こばめ 生命を賭けよ」
彼は第六戒を守りました。が、そのあと連日凄惨なリンチを受けます。 後年、渡部さんは英雄だと言われました。けれど彼は、自分は弱い人間に過ぎない、あのあと、とても信仰を強く持つことはできなかったと。その絶望を託した歌があります。
信仰も 思想も脆き ものと知る 人倫(みち)ふみしのちの われを支えず
ガラテヤ3.23の言う「信仰」とは何でしょうか。「ピスティス」、「信仰」とも「信実」とも訳せます。「信仰」と言えば人間の側のものですが、「信実」はイエス・キリストのものです。私たちの信仰は自分の持ち物ではありません。渡部さんも「信仰」ならぬキリストの「信実」が支えてくださったから神の戒めを守ることができました。聖書はただキリストの「信実」としてのピスティスが私たちの中を貫いていると述べます。私たちの信仰は私たちの中にはない、私たちのとなりに立つイエス・キリストにあるのだと思います。
佐治恵さん
イエスさまが聾唖の人を癒す物語です。異邦人の地を淋しく密かに巡り歩く旅の途上、ガリラヤ湖で聾唖の人を癒してくださいと頼まれます。『指をその両耳に差し入れ……』。不思議な動作ですが、イエスさまの手は相手の身体の不自由な部位に直接触れています。この感覚を感じ取るのは現代では難しいかもしれませんが、記者マルコは「開け」というアラム語をそのまま「エッファタ」と音訳して、その感覚を伝えています。身体機能の一部が癒される以上のことを、主はこの聾唖者に見ておられます。一人の人間として天を仰ぎ、渾身の祈りで聾唖者に向き合われます。『すると、たちまち耳が開き、……はっきりと話すことができるようになった』。これを科学的に問うても無意味です。孤独の世界に閉じ込められていた人が新しい世界に解放された瞬間です。イエスさまと対話できる信仰の人生をスタートできることはどんなに幸いなことでしょうか。
秋葉正二牧師