説 教 ”若者の無邪気さ、年寄りの妬み” 原牧人牧師
聖 書 サムエル記上18:5〜11(旧約p.458)
讃 美 歌 27、245(@D)、490、173(@D)、520(@B)、29
交読詩篇 詩篇98:1〜9(p.111)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
宗教改革者ルターのあるクリスマス説教の中に、次のような言葉があります。「神は上をご覧にならない。自分のより上の存在はいないのだから。神は横をご覧にならない。並びたつ者はいないのだから。神は下こそご覧になる。最も低い所にいる者をこそ、見られる。最も低い者のかたわらに、共にいるために」。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。天使ガブリエルからこの言葉を聞いたマリアは戸惑い、この挨拶は何のことなのかと考え込んだとあります。当然のことでしょう。未婚の女性が身ごもることは、当時の社会ではむしろ恥ずべきことでした。それゆえ、天使が語った「恵まれた方」との言葉を、マリアは素直に受け入れることはできませんでした。
しかし「わたしは主のはしためです」と告白し、一連の出来事をすべて神の恵みの出来事として受け止めていきます。マリアは未婚の女性が身ごもるという、恵みの不在とも思えるような中にこそ、神さまが共におられることを確信したからです。自分の身に何が起ころうとも、すべてが感謝であり得ると。すべてが恵みの出来事であることを体感したのです。
今の社会には「どうして、そのようなことがありえましょう」と嘆かざるを得ない現実が至るところに溢れています。しかし私たちが恵みの不在と感じる中にこそ、神さまは共におられ、働いておられること。クリスマスの出来事はその証しなのです。
原牧人牧師
宗教と国家、あるいは信仰と政治の関係は、どの時代にも重要な問題です。紀元前11-12世紀頃、イスラエル民族は部族のリーダー的存在であった士師たちが民族の存亡を賭けて戦っていました。エジプトの侵略、ペリシテ人の進攻など、大変困難な時代です。カナン定住化に伴い、民の中から王を要求する声が湧き起こります(サムエル記上8章には、王制の成立に関する伝承記事あり)。サウルを王とする統一王国が誕生しますが、ペリシテ人の存在は厄介で、サウルもダビデも生涯をペリシテ人との戦いに明け暮れました。絶頂期のソロモン王の時代、彼の政治・経済的手腕と軍事的センスにより、大規模な戦闘騎馬集団がありました。王制に対して批判的な人たちの主張が王に関する規定としてきょうのテキストにありますが、16節に『王は馬を増やしてはならない』とあります。規定に照らせば、軍馬をたくさん揃えていたソロモン王は王の資格失格です。17節の『王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない』により、後宮を抱えた彼はやはり王として失格です。彼は民に対して労役を課す賦役王国を生み出しましたから、王権が肥大して権力の絶対化が起こりました。しかし申命記は、ただ古代王制を批判するだけではなく、歴史的教訓として警告を発します。王権批判の信仰的な根拠です。18-19節、王は祭司のもとにある原本から写しを作り、それを手元におき『生きている限り読み返し、神なる主を畏れること』を学ばなければなりません。「ヤーウェを畏れる」ことを学ぶのは王も民と同じですから、ヤーウェの前に支配者の権力は相対化され、権力絶対化にストップがかかります。20節の『同胞を見下して高ぶらない』も同様です。契約においても王と民は同列なのです。契約共同体の平等性はやはり支配者の権力を相対化します。こうした記事をどう受けとめ生かすかが、今日の私たちに与えられた宿題でしょう。ルカ福音書22章には使徒たちが「自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか」と議論する記事がありますが、その際イエスさまはこう言われました。『異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい』。これがイエスさまが示された信仰共同体の在り方です。福音に基づいた信仰共同体は間違っても権力志向であってはなりません。私たちは信仰共同体の形成の意味をきちんと捉えて、必要ならば国に対しても声を挙げるべきだと考えます。
秋葉正二牧師
本日は永眠者記念礼拝です。国や文化を超えて人は誰でも、亡くなった親しい者への愛着や思慕があり、それがお盆やハロウィーンなどの習俗となっているようです。本日の聖書個所では、イエス・キリストの親しかったラザロが病で亡くなり、その姉妹マルタとマリアが「もしここにいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えました。身も世もなく悲しむ人々を見て、イエスは涙を流されます。それは皆が誤解したようにラザロを惜しんでではなく、人が死に対して持っているどうしようも無い無力感・敗北感に大きな同情を感じたからです。
主イエスは「もし信じるなら、神の栄光を見られると言ったではないか」とおっしゃり、ラザロを死からよみがえらせました。聖書は、神が全ての創造主であり、全てを支配しておられる方であると教えています。そのことを主イエスは私たちにわからせるために、ラザロを生き返せるという奇跡を行ってくださいました。勝利者は死ではなく神なのです。
私たち人間は死の前に無力です。死後の裁きへの恐れもまた、多くの文化に共通しています。カソリックでは遺族が祈ることで煉獄にいる死者が早く天国に行けるという伝承があります。仏教も、遺族による追善供養によって亡者の裁きが有利になるよう、何度も執りなしをします(年忌法要)。14才のアメリカ人の姪がそれを聞いて「私はクリスチャンで本当に良かった、私の罪が、イエス様のただ一度の十字架の犠牲によって赦されたのだから」との言葉を思い出します。使徒信条で告白するように、主は十字架を通して私たちを贖い、死んで葬られ陰府に下り、三日目によみがえりました。まさに「死は勝利に飲み込まれた(一コリント15:54)」のです。
私たち信仰者にとって死は、罪の報いではありません。この世での命の終わりは永遠の命の始まりです。私たちは死を迎える時も一人ではなく、主が手を取って導いてくださいます。今日ここで覚えている多くの天上の友はその証人です。教会は、一人でも多くの人と共に神の栄光に与るために伝道するのです。
キスト岡崎さゆ里宣教師
多くの人にとり宗教行為とは「参拝」を意味していて、日本でも正月にはたくさんの人が初詣に詰めかけます。私たちクリスチャンも教会に集い、礼拝をささげます。しかしそれは聖書の御言葉に聞き、共に御言葉に立って生きる共同体を作ることを目指しているからです。聖書とは何でしょう。「人生の取説」とも言えますが、それだけではありません。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益 」(テモテへの手紙二3:16)なのです。
主イエスは様々なたとえを通して人々に御言葉を伝えました。今日の箇所は有名な山上の垂訓の最後にお話しされたことです。「わたしのこれらの言葉を聞いて」というのは、これまでのイエスの教えを聞いていたはずの人々に二種類の応答があるだろうと予測しているのです。一人は岩の上に家を建て、一人は砂の上に家を建てたとあります。「岩の上に家を建てた人」とは、イエスの言葉を聞いてそれに従い、日常の様々な出来事の中でその言葉を自分の生き方に生かして行動した人です。方や「砂の上に家を建てた人」は、イエスの言葉を聞いたけれども日常の生活の中で目先の出来事にとらわれて、イエスの言葉が身につくことはなかった人です。
二人とも、晴れの日にはなんの問題もありませんでした。つまり、順風満帆なとき、自分の力でどうにかできる時は、大丈夫でした。しかし、人生には思いもかけない困難や苦難も起きます。それが人生の「嵐」です。自分の力では知恵では乗り越えられないようなことが起きた時、何を頼りにすればよいのでしょうか。御言葉を実践して生きてきた人は、「誤りを正し、義に導く訓練」を受けてきたため、何が起きてもしっかりとした考え方・生き方の土台があります。聖書の御言葉は素晴らしい。「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」( 詩編 19:11)とある通りなのです。
キスト岡崎エイブラハム宣教師