本日は永眠者記念礼拝です。国や文化を超えて人は誰でも、亡くなった親しい者への愛着や思慕があり、それがお盆やハロウィーンなどの習俗となっているようです。本日の聖書個所では、イエス・キリストの親しかったラザロが病で亡くなり、その姉妹マルタとマリアが「もしここにいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えました。身も世もなく悲しむ人々を見て、イエスは涙を流されます。それは皆が誤解したようにラザロを惜しんでではなく、人が死に対して持っているどうしようも無い無力感・敗北感に大きな同情を感じたからです。
主イエスは「もし信じるなら、神の栄光を見られると言ったではないか」とおっしゃり、ラザロを死からよみがえらせました。聖書は、神が全ての創造主であり、全てを支配しておられる方であると教えています。そのことを主イエスは私たちにわからせるために、ラザロを生き返せるという奇跡を行ってくださいました。勝利者は死ではなく神なのです。
私たち人間は死の前に無力です。死後の裁きへの恐れもまた、多くの文化に共通しています。カソリックでは遺族が祈ることで煉獄にいる死者が早く天国に行けるという伝承があります。仏教も、遺族による追善供養によって亡者の裁きが有利になるよう、何度も執りなしをします(年忌法要)。14才のアメリカ人の姪がそれを聞いて「私はクリスチャンで本当に良かった、私の罪が、イエス様のただ一度の十字架の犠牲によって赦されたのだから」との言葉を思い出します。使徒信条で告白するように、主は十字架を通して私たちを贖い、死んで葬られ陰府に下り、三日目によみがえりました。まさに「死は勝利に飲み込まれた(一コリント15:54)」のです。
私たち信仰者にとって死は、罪の報いではありません。この世での命の終わりは永遠の命の始まりです。私たちは死を迎える時も一人ではなく、主が手を取って導いてくださいます。今日ここで覚えている多くの天上の友はその証人です。教会は、一人でも多くの人と共に神の栄光に与るために伝道するのです。
キスト岡崎さゆ里宣教師