宗教と国家、あるいは信仰と政治の関係は、どの時代にも重要な問題です。紀元前11-12世紀頃、イスラエル民族は部族のリーダー的存在であった士師たちが民族の存亡を賭けて戦っていました。エジプトの侵略、ペリシテ人の進攻など、大変困難な時代です。カナン定住化に伴い、民の中から王を要求する声が湧き起こります(サムエル記上8章には、王制の成立に関する伝承記事あり)。サウルを王とする統一王国が誕生しますが、ペリシテ人の存在は厄介で、サウルもダビデも生涯をペリシテ人との戦いに明け暮れました。絶頂期のソロモン王の時代、彼の政治・経済的手腕と軍事的センスにより、大規模な戦闘騎馬集団がありました。王制に対して批判的な人たちの主張が王に関する規定としてきょうのテキストにありますが、16節に『王は馬を増やしてはならない』とあります。規定に照らせば、軍馬をたくさん揃えていたソロモン王は王の資格失格です。17節の『王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない』により、後宮を抱えた彼はやはり王として失格です。彼は民に対して労役を課す賦役王国を生み出しましたから、王権が肥大して権力の絶対化が起こりました。しかし申命記は、ただ古代王制を批判するだけではなく、歴史的教訓として警告を発します。王権批判の信仰的な根拠です。18-19節、王は祭司のもとにある原本から写しを作り、それを手元におき『生きている限り読み返し、神なる主を畏れること』を学ばなければなりません。「ヤーウェを畏れる」ことを学ぶのは王も民と同じですから、ヤーウェの前に支配者の権力は相対化され、権力絶対化にストップがかかります。20節の『同胞を見下して高ぶらない』も同様です。契約においても王と民は同列なのです。契約共同体の平等性はやはり支配者の権力を相対化します。こうした記事をどう受けとめ生かすかが、今日の私たちに与えられた宿題でしょう。ルカ福音書22章には使徒たちが「自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか」と議論する記事がありますが、その際イエスさまはこう言われました。『異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい』。これがイエスさまが示された信仰共同体の在り方です。福音に基づいた信仰共同体は間違っても権力志向であってはなりません。私たちは信仰共同体の形成の意味をきちんと捉えて、必要ならば国に対しても声を挙げるべきだと考えます。
秋葉正二牧師