テキストは「カナの婚礼」です。舞台は婚礼の披露宴、母マリアは披露宴を取り仕切っているようなので、親しい人の結婚式でしょう。ユダヤの婚礼披露宴は興に乗ると一週間も続きましたから、何とも大変な行事です。そこでは「ぶどう酒」が振舞われました。1章の洗礼者ヨハネの厳しい空気の記事のすぐ後にこの記事の配置ですから、1章から2章は厳しさから喜びへの移り変わりです。
さて、宴もたけなわ、心をまろやかにするぶどう酒がなくなりました。マリアは息子に声をかけます。『ぶどう酒がなくなりました』。彼女は息子に何か只者ではない直感がしたのか、遠慮がちな物言いです。対するイエスさまの応答、『婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです』。何と冷たい言い方でしょうか。しかしヨハネが伝えたかったことは、すぐ後の『わたしの時はまだ来ていません』という部分でしょう。さて、イエスさまが召使いたちに甕一杯に水を汲ませ、それを宴会の世話役のところへ持って行かせると、水はぶどう酒に変わっていました。このイエスさまの奇跡を、ヨハネは「栄光を現した」「最初のしるし」と言います。ヨハネ福音書はこの後もイエスさまは人々が驚くような「しるし」をたくさん示します。奇跡という神さまの「しるし」を使いながら、「皆さん、この凄いしるしの意味が分かりますか」と読者へ問いかけているのかもしれません。
また先述の通り、鍵は『わたしの時はまだ来ていません』にあるようです。母は息子が只者ではないと感じつつ、息子が何とかしてくれるだろうと思い、『ぶどう酒がなくなりました』と言ったのでしょうか。対するイエスさまの返事は「素っ気ない、冷たい」ものです。これはマリアとはまったく違う視点からの言葉です。イエスさまは既に父である神さまの意志を感じ始めておられたのでしょう。たとえ相手が母であっても、人間の意志を神の意志に優先させることは出来なかったのです。
『わたしの時はまだ来ていません』には、人間の時間に対する認識を超えた、いわば神の時間が介在しています。「わたしの時」という表現は、神の子として神の意志を実現する「時」を意味し、「十字架と復活の時」を示唆します。ヨハネにとってイエスさまの「しるし」は、奇跡を行う能力ではなく、新しい恵みと真理を示す権威の「しるし」なのです。奇跡よりもはるかに大きな栄光が神の独り子にはある、そうヨハネはこの福音書で言いたいのです。『それで、弟子たちはイエスを信じた』とありますが、この時弟子たちは聖霊を受けたに違いありません。イエス・キリストの新しい創造の業、これは恵みであり、こんなに大きな喜びは他にはありません。
秋葉正二牧師