2014年07月07日

聖なる生活の実【ローマ6:15〜23】

聖句「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(6:22)

1.《人は馬の如し》 ルターは「人間は馬の如きである」と言います。神を騎手にしているか、悪魔を騎手にしているか、そのどちらかなのです。どんな名馬、駿馬も乗り手次第です。走るものも走りません。また、駄馬でも騎手が良ければ、意外に走るのです。神に騎手になって頂ければ間違いはありませんが、悪魔が騎手になっていると、どこに連れて行かれるか分かったものではありません。パウロの「義の奴隷」と「罪の奴隷」の譬えも全く同じことです。

2.《人生は灰色か》 イエスさまも「2人の主人に兼ね仕えることは出来ない」と仰っています。「あれかこれか」の二者択一なのです。どっち付かずの中立もなければ、「あれもこれも」の両方もありません。「義の奴隷」は「仕える生き方」です。自分の存在が誰かのお役に立つ時、生き甲斐があるのです。私たちの人生を「神なし」として生きるか、「神あり」として生きるかの選択なのです。そうは言っても、「人間の実相は白黒つけられず灰色ではないか」という反論があります。しかし、人の目にはどうあれ、神の御目から見れば明らかなのです。

3.《雪よりも白く》 「聖なる生活の実」は「きよさに至る実」と訳されていました。「きよさ」と言っても「清潔」ではありません。むしろ「聖潔」なのです。「ハギアスモス」は「潔い状態」、その形容詞「ハギオス」は「聖なる」です。「聖霊」や「聖徒」も、この語を使います。神さまの聖に倣うという意味です。とは言え、これはキリスト者の生活目標として掲げられているのではありません。看板やスローガンでもありません。今現在の状態なのです。およそ信じられないことですが、キリスト者とされた結果、私たちのような汚れ果てた者でも、神さまによって創り変えられて、主の「聖なる」ことを告白するように促されているのです。その告白と証の人生こそが「聖なる生活の実」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:15 | 毎週の講壇から