2014年08月27日

礼拝の献げもの

1.探し求める

J・S・バッハの器楽曲に「音楽の捧げもの」(Musikalisches Opfer/BWV.1079)があります。詳しいことは知りませんが、バッハがプロイセンのフリードリヒ大王(彼自身、作曲家でした)に献呈したので、「音楽の捧げもの」と呼ばれているのでしょう。9つの楽曲から構成されていますが、私は、その第5曲目「6声のリチェルカーレ」(Ricercare a 6)というのが大好きです。

実を言うと、余りバッハには興味がありませんでした。けれども、高校時代に愛聴していたNHK-FMの番組に「現代の音楽」というのがあって、毎回、ペンデレツキやヘンツェ、リゲティやクセナキスの不協和音を楽しみにしていたのです。その頃の私は「ロックならプログレ、ジャズならフリー」という風に、脳天をハンマーで叩くようなものが真の音楽であると堅く信じていたのです。

「現代の音楽」が始まると(私の聴いていた頃は)、新ウィーン楽派のアントン・ヴェーベルンがオーケストラ用に編曲した「6声のリチェルカーレ」が流れるのです。そして、音楽評論家の上浪渡(うえなみわたる)のナレーションが被さるのでした。ラジオを通して、あたかも陰府の世界から聴こえて来るような雰囲気に、私はゾクゾクしたものです(殆ど「霊界ラジオ」ですね)。調べてみたら、上浪さん、2003年に亡くなっていました。日本基督教団井草教会でお葬儀が行われています。

因みに「リチェルカーレ」とは「探求」を意味するイタリア語だそうです。後に続く旋法や調を「探し求める」ことに由来するそうです。ルネサンス音楽や初期バロック音楽の様式なのだそうですが、何かしら神秘的な語です。

2.席上献金袋

この9月から、毎週の主日礼拝の際、受付台の上に「礼拝(席上)献金袋」を置くことになりました。礼拝委員会で企画して、役員会の承認を得て、モデルを作成して、改めて役員会で意見交換をして作り直しました。封筒の両面に、礼拝(席上)献金の主旨について説明書きがしてあります。

「礼拝(席上)献金袋」、その下に「Please Use for Offering」と英語の記載も加えたのは外国の人も出席されることがあるからです。この「Offering/献金、献げもの」という語を改めて見ていて、バッハの「捧げもの/Opfer」を思い出した訳です。

その後には、このように書きました。「礼拝(席上)献金は、今日、神さまから与えられた恵みと祝福に感謝してささげます。あるいは、明日への願いと希望を託してささげます。金額に決まりはありません。むしろ、神さまは、ささげる人の魂を見ておられます。祈りをこめて献金をおささげしましょう。キリスト教の礼拝に初めていらっしゃる等して、お持ち合わせのない方、「献金」の主旨に納得できない方は、どうぞ、この袋を、そのまま、係が回す献金かご(黒色布製)の中にお入れください。」

裏面には、献金についての聖句を書きました。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。(コリントの信徒への手紙U9章6〜7節)」

どうぞ、会員の皆さんも一度手に取って御覧ください。記載からもお分かりのように、封筒の「献金袋」を用意したのは、礼拝に初めていらっしゃった人、教会の礼拝に慣れていない人への配慮です。

今年の初め、八木谷涼子著『もっと教会を行きやすくする本/「新来者」から日本のキリスト教界へ』(キリスト新聞社)という、画期的な本が出版されました。「伝道」「宣教」「信仰の継承」等、観念論を云々する前に、是非とも読まなければならない本です。その中で、新来者にとって最も意味不明で困惑するのは「献金」と「聖餐式」であることが言われています。しかも、多くの教会において何の説明も行なわれないまま、粛々と為されていて、新来者は置き去りにされている時間なのです。

3.楽園への鍵

以前から「礼拝(席上)献金袋」を使用している教会は数多くあります。しかし、我が行人坂教会では、これまで、そのような配慮をして参りませんでした。勿論、会員の皆さんに「礼拝(席上)献金袋」の使用を強制するものではありません。これまで通り、裸のまま、係が廻す「献金かご」(黒色布製)の中に入れて下さって結構です。反対に「礼拝(席上)献金袋」を使用して下さっても結構です。

教会によって「礼拝献金」の時間の在り方は、実に様々です。会衆が講壇の前まで行列をして、各自お祈りしながら、銀のお盆の上に紙幣やコインを置いて行く教会もあります。これを礼拝学では「奉献の行進/Offertory Procession」と言います。「奉献」としての「献金」と「聖餐」とは繋がっているのです。「差し上げる、奉げる」という意味の「アナフォラ/anaphora」という語(ヘブライ人への手紙7章27節)が、東方教会においては「聖餐」を呼ぶ名称と成っているくらいです。そもそも「奉献」は、キリストが御自身を与え給うたことに対する応答なのです(コリントの信徒への手紙U8章9節)。

「月定献金/約定献金」は、教会運営を支えるために会員に課せられた責任ですが、「礼拝(席上)献金」には、会員であるか否か、キリスト者である否かの区別はありません。その時その場に共に集っていること、「存在と時間」の共有だけが重要なのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカによる福音書23章43節)の御言葉を開く鍵なのです。

牧師 朝日研一朗

【2014年9月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 09:32 | ┣会報巻頭言など