2014年09月22日

神の国は近づくか!?【マルコ1:14〜20】

聖句「イエスはガリラヤへ行き、神の国の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(1:14,15)

1.《天国の駅》 豊中教会に派遣神学生で行っていた頃、子どもたちが唱える「主の祈り」で「御国を来たらせ給え」だけが異常に力が入っていました。尋ねてみると、彼らは「阪急宝塚線三国駅」のことだと思い込んでいたのです。このように聖書と信仰には勘違いが付きものです。キリスト教の歴史も聖書の誤読の上に積み上げられています。しかし、人生にも聖書にも「正解」はなく、「問いかけ」を生きることが求められているのではないでしょうか。

2.《漁師たち》 イエスさまの宣教の第一声は「神の国は近づいた」です。かなり唐突です。ここには「神の国」とは何かという定義も説明もありません。その意味でも、聖書は「教科書的」ではありません。普通ならば、このような人に付いては行けません。ところが、4人の漁師たちが網を捨て、父親と船子と船を捨てて付いて行ったのです。催眠術か魔法に掛けられたようです。しかも、付いて行ったのは、世間知らずの学生ではなく、ガテン系の労働者です。

3.《間にある》 「御国を来たらせ給え」は「来たらせよ、近づかせよ」という願いです。イエスさまの第一声も「神の国が近づいた」「神の国が来た」です。4人の漁師たちは、社会変革の時が来るのを、祈りながら、今や遅しと待ち望んでいた人たちだったのです。但し、彼らの思い巡らす「神の国」はこの世の王国の延長でしかありませんでした。彼らは誤解していたのです。しかし、イエスさまは読み間違えている人を敢えて選んで、弟子とされたのです。ここに、キリスト教信仰のダイナミズムがあります。気付きや悔い改めに価値があるのです。「御国はこの世のものではない」のですが、イエスさまは「あなたがたの間にある」とも言われています。「間に、只中に」は「手の届く範囲に」という意味です。「見えるものは見えないものに触っている」(ノヴァーリス)のです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:55 | 毎週の講壇から