2014年10月23日

キリスト教こんにゃく問答]X「死者との交流」

1.死者の力?

東日本大震災によって、大勢の人たちが愛する家族を一瞬にして失いました。未だに遺体が発見されず、その喪失を死として受け止めることすら出来ない人もいるそうです。そのような大きな痛みを抱える人たちの中に、死んだ家族が訪ねて来たというような体験者が次々と現われ始めました。最初は、新聞のコラムのような小さな囲み記事で知ったことです。昨年夏には、NHKスペシャル「亡き人との再会=`被災地三度目の夏に」というドキュメンタリー番組が制作されました。

津波で家族を失くした人たちの、訥々と語られる痛切な告白が胸に迫ります。そして、ある日、果たされた「再会」の証言。それを「心霊体験」等と呼ぶことに逡巡を感じてしまう程に、有り触れた素朴な体験談でした。亡き幼な子が愛用の玩具を揺らしたとか、下駄箱のブーツの中に亡き父の墓前に供えられた花が入っていたとか、幼くして死んだ二人の子どもたちが成長した姿を見せに来てくれて「もう大丈夫だから」と言ってくれたとか…。どれもこれも日常の延長線上にあって、「不思議」とすら思えませんでした。

ただ、この体験を契機にして、生きる意欲を取り戻す人も多く、地元の精神科医は「死者の力」と呼んでいると説明していました。

2.死者の祈り

キリスト教、もしくは聖書の信仰では、余り詳しく死者のことは扱っていません。けれども、何事にも例外はあるものです。

「サムエル記上」28章には、ペリシテ軍との決戦を前にして、恐れを抱いたサウル王が死霊を呼び出すエピソードがあります。最初、サウルは祭司や預言者によってヤハウェの託宣を求めるのですが、上手く行きません。それで遂に、自分が禁止し迫害していた「口寄せの術」に頼るのです。

身分を隠したサウルは夜陰に紛れて、巫女(口寄せの女)を訪ねて、あろうことか、預言者サムエルの霊を呼び出させるのです。何とかして、サムエルの助力を得ようとしたサウル王でしたが、サムエルは生前同様に「主があなたを離れ去り、敵になられたのだ」と冷たく言い放ちます。それどころか、イスラエル軍の惨敗と王の戦死すら預言するのでした。ここでは、イスラエルでは魔術として厳しく禁じられていた「口寄せの術」を通して、ヤハウェの御心が語られるのです。

旧約聖書の信仰では、死者は神の御手から離れて行ったものと考えられていました。何しろ、旧約聖書は八割方、現世主義的な信仰なのです。神の祝福は生前において受けるものであり、病気や障碍、その他の災いを受けるのは、何等かの罪を犯した報いと信じられているのです。律法を守って正しく生きていれば、信仰者は何百歳もの長寿に恵まれ、若くして死ぬ者は悪事を働いて呪われた者なのです。たとえ、信仰と善行の報いが現世で与えられないように思われても、その祝福と恵みとは、嗣業の土地を受け継いだ子孫の上に、いつの日か華咲くと信じられていました。

まあ、そのような単純な、しかし強固な「因果応報」の信仰に対して、異論反論を唱えているのが「ヨブ記」であり「コヘレトの言葉」であった訳です。また、バビロン捕囚の現実を正面から受け止めた「イザヤ書」や「エレミヤ書」には、「因果応報」を乗り越えようとする試行錯誤が見られます。

そんな旧約と新約とを繋ぐ「旧約続編」には、死者の復活の信仰が語られています。セレウコス朝シリアからの独立運動を指揮するマカバイ家のユダが、戦死者のために、自分のゲリラ部隊の各人から金を集めて、「贖罪の献げ物」としてエルサレムに送るのです。

「それは死者の復活に思いを巡らす彼の、実に立派で高尚な行ないであった。もし彼が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者のために祈るということは、余計なことであり、愚かしい行為であったろう。だが彼は、敬虔な心を抱いて眠りについた人々のために備えられている素晴らしい恵みに目を留めていた。その思いは真に宗教的、かつ敬虔なものであった。そういう訳で、彼は死者が罪から解かれるよう彼らのために贖いの生贄を献げたのである」(「マカバイ記2」12章43〜45節)。これを読むと、私は「供養」という仏教用語を思い出してしまいます。

この後「マカバイ記2」では、故人である大祭司オニア三世がユダの夢枕に立ち、驚いたことには、預言者エレミヤを紹介するのです。そして、エレミヤが彼のために「神の賜物であるこの聖なる剣を受け、これで敵を打ち破りなさい」(15章16節)と、戦勝の祈りを唱えてくれるのです。先には死者のために祈ったユダでしたが、ここでは、死者が生者の健闘を祈ってくれるのです。

3.死者に福音

これまで大勢の信徒から、牧師として質問されたテーマの一つに「死後の世界」があります。勿論、私は丹波哲郎ではないので、見て来たように語ることは出来ません。そもそも聖書それ自体が「死後の世界」を見て来たように語ったりはしないのです。そこで、牧師としても、ヴィトゲンシュタインではありませんが、「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」と言うのが賢明な態度なのです。

「死後の世界」について質問なさる信徒の動機は、「夫は未信者のまま逝ったのですが、天国で再会できるでしょうか?」というものでした。夫に限らず、親兄弟、子ども、身内に友人、色々な人たちと愛し合い、睦び合って生きているのが私たちです。そのような思いが去来するのは当然のことです。

今でも「救われるのはキリスト者のみ」と教えている教会は数多くあります。それを前提に「キリスト者とは洗礼を受けた者」と定義しています。ところが、熱心な信徒として働くように意図してのことでしょうか、「滅び」を強調する一方、ただ受洗しているだけではダメで、「悔い改めた者」「霊の洗礼を受けた者」「身と魂を献げた者」「賜物を教会のために活かす者」と、際限なく条件は上がって行きます。しかし、信仰や洗礼を「救いの条件」とするのは如何なものでしょう。そのために、かつては、私たちの教団でも(無理矢理の)「幼児洗礼」どころか「死後洗礼」までが行なわれていたのです。

むしろ、キリストは今も、信者であろうと未信者であろうと、正しい者であろうと正しくない者であろうと、生きている者であろうと死んだ者であろうと、等しく神の御もとへ導こうとされているのではないでしょうか。

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(「ペトロの手紙1」3章18〜19節)。

「使徒信条」に告白されている「…死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」の意味が、ここにあります。キリストは陰府においても、福音を「宣教」なさっているのです。死んだ者もまた、「霊において生きるようになるため」(同書4章6節)です。

キリストの働かれる「陰府の三日間」は、間違いなく「永遠の時」と繋がっているはずです。私たちは「キリストは生も死も司っておられる御方」と信じて、むしろ、安んじたいと思います。それこそがガツガツしない、本物の信仰です。


【会報「行人坂」No.249 2014年10月発行より】

posted by 行人坂教会 at 15:11 | ┗こんにゃく問答