2014年11月17日

見たこともないのに【Tペトロ1:3〜9】

聖句「あなたがたは、キリストを見たこともないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。」(1:8)

1.《目視と確認》 19世紀米国の詩人エミリ・ディキンソンは、生家を出ることなく生涯を終えた人でした。しかし「荒野をみたことがないがヒースを知っている/神と直接話したことはないが天国を知っている」という詩を書いています。私たちは国内外を問わず、遠方に旅行し「見て来た」と言います。何でも目で見て確認しなければならない、視覚偏重の社会なのです。それは、工場労働者が「目視と確認」を義務づけられる産業社会特有の現象なのではないでしょうか。

2.《見ると知る》 本当は「見る」と「知る」とは余り繋がっていないのではないでしょうか。旧約聖書の「知る」という語は、単に「理解する、悟る」程度ではなく、「まぐわう、愛する」という意味さえあるのです。本当に「知る」とは、体験として「知っている」ことなのです。マルグリット・デュラスの『ヒロシマ私の恋人』は、戦後の広島に映画ロケに訪れたフランス人女優と日本人建築家との対話で構成されていますが、「私はヒロシマを見た」と語る彼女に、彼は「君はヒロシマで何も見なかった。何も」と応えるのでした。

3.《不合理故に》 この手紙が書かれたのは、ドミティアヌス帝の迫害時(1世紀末)かトラヤヌス帝の迫害時(2世紀初め)と推測されています。もはや、イエスさまに直接お会いした人たちではないのです。その意味では、私たちと同じ立ち位置にあります。私たちはキリストを見たことがありませんが、キリストを信じていているのです。「見たこともないのに信じるのか?」と不信者から嘲笑されても、信じて行こうとしています。テルトゥリアヌスは「不合理なるが故に我信ず」と言いました。知性を犠牲にして、無理に信じ込むのではありません。むしろ、私たちの知性の限界を自覚した上で、それを超える御心を思う時、「言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れる」のです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:42 | 毎週の講壇から