2015年01月19日

憐れみ受けて招かれて 【ローマ11:25〜36】

聖句「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(11:29)

1.《私の初心》 よく「初心忘るべからず」と申します。世間では「初めての時の感動や意気込み、初志を忘れずに物事に当たらねばならない」の意味合いで使われています。成る程、慣れて来ると何事もルーチンに陥ります。教会生活も、いつも自分から「お迎えする側」に立つことを意識しないと、いつの間にか「お客様状態」どころか、横柄な「牢名主状態」に成ってしまうのです。

2.《人の初心》 世阿弥の『花鏡』が「初心忘るべからず」の出典です。「初心」と言うと、とかく若い時代に限定して考えがちです。しかし、世阿弥は「若い時の初心」に加えて「時々の初心」「老後の初心」を言います。青年時の挫折や失敗だけが大切なのではなく、壮年老年期の風体を身に付けること、更には、老後にも未経験の出来事や試練が訪れるのですから、自らの未熟さを受け入れつつ、それに向き合って行かねばなりません。それが本来の「初心」なのです。失敗しないこと、要領よく立ち回ることが大切なのではなく、自らの人生を引き受けていくことが大切なのです。信仰を生きることも全く同じです。喜寿米寿傘寿を迎えても尚、未経験の出来事、初体験が待っているのです。

3.《神の初心》 世阿弥を読むと、芸事においても「謙虚さ」が求められていることが分かりました。信仰で言えば「自分が空しい者であるとの自覚」です。神さまの恵みを前にしては、私たちの信仰や業績、知恵や悟りの大小などは取るに足りないのです。神の恵みは絶対的で、全てを包み込んでいます。神の「賜物と招き」は「憐れみ」(神の愛)によるものです。十字架上の主の「父よ、彼らをお赦しください」の祈りです。あの執り成しの祈りに表わされた愛によって支えられているのです。この「初心」を忘れ、傲慢に陥った時、教会は基礎を失うのです。崩壊して廃墟と化します。私たちの信仰は「神の初心」によって与えられ、導かれます。私たちも「キリスト者の初心」を忘れてはなりません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:50 | 毎週の講壇から