2015年02月16日

人生の旅人【ヘブライ11:13〜16】

聖句「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。…自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表わしたのです。」(11:13)

1.《ゴーギャン》 ゴーギャンの絵画に「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」と題された作品があります。タヒチ移住後、貧困と病苦の中、愛する娘の死を契機に描かれました。カトリック教会に反抗し続けたゴーギャンですが、神学校時代に学んだ教理問答「創造論」から引用したのです。

2.《ハイネの詩》 ハイネの「問い」という詩の中にも同じフレーズが出て来ます。荒涼とした夜の海辺に立つ若者が「人生の謎」を問い掛けます。ハイネはユダヤ教徒からプロテスタントに改宗しながらも、終生、後悔して自分を責め続けた人です。しかし、これは宗旨に関係なく、いつの時代のどんな人間にとっても迫ってくる問いなのです。残念ながら、近年「人生いかに生くべきか」の問いを発する若者がいません。周囲から「お前自身の問題だろ」と叩かれるのです。単に「共感の喪失」のみならず「普遍性の喪失」が進んでいるのです。産業社会のもたらした呪いの1つだと思いますが、私たちの抱える課題はお互いに共有されなくなり、各人が孤立して窒息状態に陥っているのです。

3.《カトリコス》 普遍的な問い掛けをさせない社会に成っているのです。本当は若者の青臭い問い等ではなく、「人生の秋」から「人生の冬」に避けようもなく迫る喫緊の問いなのです。長い年月、私たちが疑問を発することを止めていたにしても、いずれ向き合う現実です。幾ら長逗留をしても「仮住まい」の身に変わりはありません。私たちは「旅人」なのです。「旅は道連れ世は情け」「旅は情け人は心」とも言います。人との出会いと別れに対しても、この世に対しても、愛惜の念をもって接しましょう。今の時代、皆が個別化し、公を無視して、個人の見解だけを主張し合っています。私たちは皆「旅人」であるとの事実認識に立ってこそ、「カトリコス/普遍的な、公の」が保証されていくのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:45 | 毎週の講壇から